ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

あれもこれも

 午後になって動き出す。外は寒い。まず、憲政記念館に行く。初めて行った。永田町で降りて地上に出ると、すぐ警察官が長い棒を持ってたっている。政権与党の本部に差し掛かると、通り過ぎる人間に一人一人目を配る警察官が何人もいる。そりゃビルを見上げてカメラを構える爺を睨み付けてもしょうがないだろうとは思うが、むこうは真剣なのかも。銀杏並木が黄色い葉をそよがせる。国会図書館前は桜並木だからもう紅葉も通りすぎてしまった感じで冬そのものだ。

憲政記念館

 憲政記念館に入ろうとすると実にゆったりと過ごしているらしい猫が二匹、毛繕いをしている。警官にも睨み付けられない君は良かったね、と語りながら入ろうとすると入口におじさんおばさんが数十人、表に向かって整列している。人数を点検している人がいる。一体なんだ・・・。
 入口で年代と、入る人数を書く。なんだろう、これは。アンケート用紙と69頁の特別展冊子をいただく。お、そうか、憲政記念館というのは正式には「衆議院憲政記念館」というのだ。ということはここで受付やそこここに立っておられる方は衆議院の職員なのか。「重光葵(まもる、とルビが振ってある)とその時代 - 昭和の動乱から国連加盟へ- 特別展」というのが11月30日までの特別展である。
 特別展の会場である二階に上がるとすぐに約20分ほどのフィルム上映があり、私が入ると始まった直後で約10名ほどの方々が見ておられた。
 重光といえばアジア太平洋戦争に負けて9月2日に戦艦ミズーリー号の甲板上でサインをした時の代表だ。あの時に、カナダの代表が欄を一行すっ飛ばしてサインをし、その後大変だったという話を聞いていたが、まさにそのサインをした降伏文書も展示されていて、とても興味深かった。
 もうひとつとても興味深かったのは社会党浅沼稲次郎山口二矢に1960年10月12日午後3時ごろ日比谷公会堂の壇上で刺された時に着ていたという洋服だった。私が中学生の時の出来事ではっきりと覚えている暗殺事件である。左の脇腹に刺されてできたと思われる洋服の傷はほんのわずかなもので、左袖の縫い目あたりが裂けていて、ワイシャツには血の跡が滲む。しかし、何故あの事件を「浅沼稲次郎遭難時」と表すのだろうか。あれは明確に暗殺事件であったのではないのか。
 実は「重光葵手記」そして「続重光手記」を入手してあって本のさわりしかまだ読んでいない。これからこれを読むについて、参考になる様々な資料を見せて頂いた。
 それにしてもホンの50-60年ほど昔の方々にもかかわらず、彼らが認めた書、あるいは書簡の類は墨痕鮮やかな毛筆であり、そのどれひとつとっても私には読み下すことができないのは大変にショックである。横に置いてあるワープロで書いたカードがなければ、全く理解不能なのが同じ日本文化の中に暮らしているひとりとして大変に情けないものがある。
 重光は手榴弾を投げつけられて右足を失った。そして彼のために大正皇后から義足を賜った。その義足も展示してあるのだけれど、その義足に「恩賜」と記されているのがなんとも唐突な感じがしてしまう。確かにそうなんだけれど。
 もうひとつ面白かったのは昭和20年に復刊された「赤旗一号」である。徳田球一が持っていたものが保存されているらしく、その表紙にKyuichi Tokudaと筆記体で彼のサインがしてあるのだ。別にどうということもないのだろうが、あの頃の人はやたらとアルファベット筆記体でサインをする。
 昭和29年、30年と重光の日記は既製の日記帳を用いているが、その用紙のまぁ粗末なことではあるのだけれど、こうして見るとわれながらあの頃のことをとっくに忘れ去っているのだなぁと自省の念に駆られるのである。そういえば何か書く紙といえばわら半紙だった。だから学校で画用紙が配られるのもあんなに嬉しかったわけだったのだ。ところが重光の日記は昭和31年になると突然小さな手帳を横にして縦書きにしてある。なにか理由があるのかもしれない。それにしても小さな文字でそれが崩してあり、分かりにくいことこの上ないのだけれど、彼の文字はそれでもまだ四角い分わかりやすいといっても良いのかもしれない。私の父が書いたあの小さな全部繋がっている文字で書かれた日記帳を思い出した。未だに解読不能。昭和31年は重光が日ソ交渉でソ連案の二島返還で妥協しようとしたが鳩山がこれを拒否した年である。
 時代が前後するが昭和27(1952)年5月7日付の芦田宛の重光の書状があったのだけれど、そこに「・・祖国困迷の為・・」とあり、本来は「混迷」ではあるが、この「困迷」は当時の状況からするとかえってわかりやすいじゃないかと笑えた。
 また、昭和31(1956)年12月の国際連合加盟承認に際してはそのタイプ打ちしたと覚しき決議文(Draft Resolution)には各国代表による記念のサインが所狭しとしてあるところが大変に興味深かった。こんなことをする習慣があったのかとこの辺はただ単に本で読んでも分からない。
 最後の方に重光葵系図が引いてあった。妻・喜恵子は大正7年に全国で初めて方面委員制度(のちの民生委員制度)を作った大阪府知事であった林市蔵の娘だったのには驚いた。別に驚くには値しないのかもしれないが、私の中では全く結びつかなかったのである。思わず後で出会った友人になんの脈絡もなく話したくなったくらいだ。
 2時間弱ほど滞在して外が薄暗くなった頃に憲政記念館を辞する。この地は元はといえば彦根藩井伊家の上屋敷で、それが陸軍の参謀本部となり、昭和35年(1960)年に尾崎記念館が建てられ、昭和47年にこれを吸収して憲政記念館となったのだそうだ。

紀伊国屋

 有楽町線飯田橋で降り、大江戸線に乗って新宿に出る。年末の紀伊國屋ホールでの恒例のイベントの切符を5階に上がって引き取る。そのまま5階の検索端末で捜している二冊の本を検索すると一冊は1階にあるがもう一冊は在庫がない。歴史の棚を見回すと欲しくなりそうなものを発見するが悩む。平置きに出たばかりの保阪正康の「昭和の大河を往く」シリーズの第三集「昭和天皇、敗戦からの戦い」(毎日新聞社)を見付けてしまい、思わず買ってしまう。一階に下りて、捜していた「叛逆のとき(Treason's Time)」フランク・マカダムス著山本光伸訳 柏艪舎 2007.06を入手。“「東京ローズ」裁判に携わった米陸軍将校の体験を基にしたノンフィクション・ノベル”とされている。
 またまた地下に降りて気に入りのうどんや「水山 」でちゃんぽん・うどんを食べる。うまい。紀伊国屋に用事があってきたら必ずここで腹を満たす。邪道メニューだ、という声が聞こえてきそうだけれど、これが旨い。

講演会

 母校のある研究科主催で「日本の社会保障の将来」というテーマの講演会に出る。大きな教室が会場に指定されていたので本当にこんなに人が来るのかと思ったが、半分くらいの入りだった。この研究科は学部を持たない独立研究科とされているものだけれど、とにかく院生の数が多い。
 スピーカーはミシガン大学名誉教授で東大や慶應義塾大で客員教授ジョン・クレイトン・キャンベルと内閣府審議官・経済財政運営担当で厚生省で介護保険を担当したという山崎史郎(東大・法1978年卒)。ジョン・キャンベルはミシガン大学日本研究センターの所長を務めた政治学者で、非常にわかりやすいパワーポイントを使い、ゆっくりと日本人にも分かるように英語で語った。社会保障制度の問題点を日本政府はすべて理解している。しかし、それでいながら全く金をつけないところが問題なのだとし、高齢者ケアに厚いけれど、その他ではあの米国レベルでしかないと看破。プライマリー・バランスばかりを問題視するが、それを待っていてはすべて遅れてしまうと問題を提起する。
 かたや経済財政諮問会議で使った有識者議員提出資料を見せながら山崎はプライマリー・バランスの2011年までの解消はまだ日本の経済状況の第一歩に過ぎないのであって、経済発展なくしては社会保障は成り立たないというこれまでの理論の上書きに過ぎない。しかし、彼の説明の中で、日本は超高齢化の途上にあり、これから先のアジア各国が進む延長線上にいるのだからアジアの実験台であるというのは的を射ているだろう。そして人口が減少しながら高齢化が進むというのは若年層が払底するということだと解説する。高齢者の間にも格差は存在し、そこから如何に負担をさせるかが焦点だといわんばかりであった。
 消費者消費を如何に現実化するかが大事だというジョン・キャンベルの主張に、山崎は高齢者は金を遣わないと嘆いてみせる。しかし、それでは話は進まない。何故高齢者が金を遣わないのかと云えば、あのかつての名古屋の姉妹、金さん、銀さんが仰ったように、「老後の蓄え」なのだ。そこにどうにか光明が見いだせれば高齢者だって遣うだろう。つまり、在宅で介護しきれなくなった時にいくらあれば、あるいは年金のうちの70-80%を拠出すれば、必ずやフォーマル機関によって介護されると分かれば、後顧の憂いなく遣うだろう。
 経済財政諮問会議有識者議員というのは、伊藤隆敏東京大学大学院経済学研究科教授(マクロ経済学、金融論)、丹羽宇一郎伊藤忠商事株式会社取締役会長、御手洗冨士夫キヤノン株式会社代表取締役会長、日本経団連の会長、八代尚宏国際基督教大学教養学部教授(労働経済学)という例のメンバーのことである。彼らが経済第一主義をいわないわけはなくて、そうした人選をしてそうした方向性にもっていくのが官僚の役割だと思っているわけだから、これを否定はできないだろうことは想像がつく。
 予定の20時半を過ぎてようやくフロアーにマイクがまわる頃に、会場がなんだかざわつく。若い人たちが動く。それも当たり前のような顔つきで動く。なんだろうと思っていたが、実は学部の教員の中でこうした講演会を聴いてレポートを書けと指示しているのがいるらしい。
 喋りすぎのフロアーの発言を三人で終わって終了してみると学部出身者が何人か見つかり、やぁやぁと集まる。それぞれしっかりと実務をまっとうしているらしい。ビールを軽く呑んで再会を約す。