ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

小布施を歩く、歩く。

ながでん電車広場

 10時過ぎの特急に乗って小布施を目指す。小布施で降りると、昨日須坂に向かう途中で特急「ゆけむり」から垣間見た「ながでん電車広場」と書かれた一角に機関車と電車が待っている。もう全く解放されていて、扉が開きっぱなしになっているから運転席から客室まで平気で立ち入れる。ま、有り体にいってしまえば開けっ放しになっているということで、さんざんぱら中に潜り込んで降りてくると帽子やコートに埃がこびりつくのだ。なにしろ懐かしいのは長いつり革、板張りの床、丸い電灯の笠と云ったものだろう。もう全く手が入っていないので、長椅子も埃だらけで最後尾の車輌はその椅子のクッションまで取り払ってある。先頭のED502は1927(昭和2)年の日立製作所製。1979(昭和54)年3月末で引退。電車は1925(大正15)年5月の汽車会社製。残念ながらメンテがしてあって(当然だけれど)つり革は皮ではなくてもうプラスティック製(当時はビニール製と云ったな、多分)に置き換わっている。1980(昭和55)年に引退。車輌に立ち入ってあっちを見たりこっちを見たりしているうちに後から来た各駅停車までもが通り過ぎて行く。もう誰もいなくなった改札を通るともう駅員さんもいない。

岩松院へ歩く

 駅前にはお土産屋さんが一軒あるだけ。タクシーが暇そうだ。私達は実にへそ曲がりなことに昨日小布施に行かれた方が「岩松院は30日からお休み」と仰っていたにもかかわらず、一路「岩松院」を目指す。目指すも何もただただ1.8kmを歩くだけである。それも本堂の北斎の筆になる天井絵も見られないというのに、である。道は至って簡単で、駅を出て左へ行く線路沿いの道をただただまっすぐ行くというものである。これだったらなんということはない、後から来た各駅停車で小布施のひとつ前「都住(つすみ)」で降りた方が全く近いのであるが、そうしていたら小布施の駅に展示公開されている機関車と電車を見られないわけである。途中の道では出会う人はほとんどいない。谷街道をくぐる手前に何やら木造の建物の中からゴワンゴワンとなにかがまわる音がする。なんだろう。普通の家のように見えるのだけれどと思って覗き込むと赤井製粉所と書いてある。いったい何を製粉してるのだろうか。建物の換気口のあたり、窓の周りなんかが白くなにかの粉がたまっていて永らく粉に挽いてきたんだろうなぁと思わせる。暮れの30日にも仕事をしているなんて精が出ることだ。
 しばらく行くと右手に何やらおもむきのあるお寺が見つかる。一茶ゆかりの寺、梅松寺と書いてある。お寺さんだからとずかずか入っていくと、なんだかまるでよそ様のお庭に入り込んだみたいで、落ち着かない。隣には神社もある。通りに戻ろうとすると歩行補助車を押しながら来たおばあさんが鳥居の手前で手を合わせておられる。「こんにちわぁ」と声をかけると、にこにこしながら会釈をしてくださる。見るからによそ者らしい私のような人間はきっとこの辺には毎日現れるのだろう。しばらくはまた前に進むと向こうの畑からおばあさんがやってくる。すれ違いにこれまた「今日わぁ」とご挨拶すると今度のおばあさんは「こんにちわ」と仰った後で、「いらっしゃい」とつけられた。なるほど、こちらにはこんな類の人が良く通りかかると云うことか。途中の道から遥かに望める斑尾の山が雪を被って見え、雨上がりの道にはお陽様が照って穏やかだ。
 岩松院はほとんど人が来る気配もない。もちろん本堂の天井絵が見られないのだけれど、それと一緒に周りのお休み処まで全部きっちり扉を閉めていて、ポツポツとやってくる人たちがいる程度で実に森閑としたものである。曹洞宗梅洞山岩松院というのがここのお寺の正式な名前である。「痩せ蛙まけるな一茶これにあり」はここのお寺で詠んだ句なのだと云われているんだそうだ。この寺の裏庭にある池でのヒキガエルの話の様であるけれど、「どうも病弱な初児、千太郎への命乞い」というのがこのお寺さんのサイト(こちら)の説明である。道理でお寺さんの入り口に立っていた石がなんだか蛙のように見えたわけだ、つうよりもわざわざそんな石を置いてあるというわけであろう。

中心に向かって

 雨上がりであちこちに水たまりが出来ているグラウンドを小学校高学年か中学校低学年くらいの少年たちが長靴を履いてドッサドッサと走っている。奥の方のビニール・ハウスのようなところから金属バットで硬球を打つ音が聞こえる。学校野球だったらこの位の年代だと軟球じゃないかと思うからひょっとしたらリトルリーグかもしれないが、学校の校庭でこんな年末に練習するのかなぁと不思議。岩松院への帰りにそのグラウンドを見ると元々は学校だったのかもしれないが、小布施町の町営グランドと書いてある。その横には小布施町レーニングセンターもあり、その横はあたかも明治か大正時代に建てられた学校校舎と覚しき建物に歴史民俗資料館としてある。案の定小布施町のサイトで見ると旧都住小学校の校舎だったそうだ。それにしても小布施町の公式サイトって、なんて詰まらないんだろう。民間が町おこしに躍起になっているからお上はそれを援助するだけで成り立っているってことなのかなぁ。街の施設を検索しても何も出てこない。町民の皆さんはどの様にしてウェブ上で町営施設の情報を入手しておられるのだろう。
 六川南の信号を渡って観音通りにはいる。するとガラス工房やらギャラリーやら古陶磁やらと次から次に、「洒落た」と云われる街には必ずある、またはなくちゃならないような種類のお店が目についてくる。伊豆高原やかつての清里やらにこうした店が必ず存在する。小布施はいつの頃からこういう街になったのだろうか。私が飯山・斑尾にしょっちゅう行っていた頃に立ち寄っては栗羊羹を買って帰った頃、もう既にこんなお店が軒を連ねていたのだろうか。
 どうやら洒落た洋菓子屋さんがたくさんできているらしいのだけれどもこれで各お店が成り立っていけるのだろうかと不思議だ。しかし、この季節で、北斎館はギリギリ今日まで開いているのだけれども、栗の木美術館、高井鴻山記念館も中島千波館も閉まっており、長電バスの小布施浪漫バスも止まっているというのにこれだけお客が来ているところから類推しても、初秋にやってきた連れあいの話を聞くとどこの店も列が出来ていたというのだから、そんな心配余計なお世話ってなものなんだろう。
 さて、その洋菓子屋の一軒が観音通りの「Rond-to」という名前の店だった。昨年開店したという話で、その前は魚屋さんだったそうだ。そして屋号が丸の中にカタカナの「ト」だったのでフランス語の「Rond」の中に「to」ということでこの店名になっているのだそうだ。それじゃ、事情を知らない人には覚えにくくないかい?読めないものなぁ。混んでいることで有名な桜井甘精堂系の「栗の木テラス」でモンブランを買う予定だったけれど、ここでもひとつモンブランを入手。モンブランといったら私の子どもの頃は自由ヶ丘コロンバンで買うものかと思っていたけれど、いつの間にか全国版のお菓子となっていたわけである。路地を渡るとそこに造り酒屋・松葉屋本店がある。裏には立派な煉瓦造りの煙突が立っている。なんだかタズマニアで見たかつての弾丸を作るためのショット・タワー(それほどの高さではないが)を彷彿とさせる様な立派な煙突だ。いつものように造り酒屋を見たら首を突っ込むのだけれど、入ってみるとここのお店も随分落ち着いた雰囲気である。辛口系の一合分のカップになっている純米酒をひとつだけ戴く。入口の暖簾の色が大変に気持ちがよい。
 ひょっと隣を見ると随分と綺麗に作られたお庭がある。この街はあっちもこっちも「open garden」と書かれていて入ってご覧くださいとなっている。気楽に入ってみると、なんとそこは「桜井甘精堂本店泉石亭」の庭で後ろを見たら座敷でお昼を食べている人たちが丸見えだった・・ということはこっちもあちらから丸見えだったと云うことである。
 まるっきり空腹を覚えたところだったから早速何を迷う暇もなくこのお店に入ってしまった。なぜかというと庭から蕎麦を食べている人が見えて、蕎麦喰いとしては矢も立てもいられなくなったというわけだ。すぐに席に案内されて、御膳と鴨汁蕎麦を注文。やってきてみて驚いた。御膳は栗ごはんまでついている。鴨汁蕎麦のせいろの盛りは小諸の草笛や刀屋程ではないにして、その辺の東京のちゃらちゃらした蕎麦屋なんかとは比較にならないくらいの盛りである。昼食できちんととっておかないと朝昼が期待できないからその分ホッとする。
 角を曲がって2-3軒先が例の「栗の木テラス」でここのケーキは評判らしい。入ってきた若い夫婦が「あぁ、良かった良かった、空いているよ!」と叫ばんばかりであった。連れあいの話によると中でケーキを食べるために並んでいるのが普通なんだそうだ。たった一個だけの「モンブラン」をテイク・アウェーを頼むとちゃんと箱の中に入れてくれて、隙間にボール紙で作ったわっかを入れて固定してくれる。小さな保冷剤、そしてプラスティックのスプーン。勿論その分価格に乗っかっているのは当然だ。もったいない。といいつつ後生大事に持って帰る。さて、道路を渡って竹風堂に入る。昔はこの店にしか入ったことがなかった。ところが今回数十年ぶりに行ってみると私の記憶とは全く違っている。ひょっとすると私が行っていたと思っていた店はここではなかったのだろうか。いや、小布施堂でも甘精堂でもなかったはずで、それはあの特徴のある包み紙の竹風堂だったはずなのだ。どうしても私の記憶と食い違う。それにしてもどう検索しても竹風堂のサイトを発見できない。
 北斎館だけは今日までやっているというのは既にウェブ上でチェック済みだったからその一角に入っていくと広場のようになったこの辺はとても洒落た敷石になっていて申し分のない程の快適さである。そうではあるが、それがここまで来るとだんだん鼻についてくる。ま、そりゃどうでもいいやと北斎館にはいる。入ると30分おきに二本のフィルムが上映されてる。いやはや実に形而上学的、いやそんな気取らなくても良いけれど、哲学的な導入で一気に有効になった暖房が作用して眠たくなろうというものである。中に飾ってある山車のようなものの天井にも北斎の絵が描かれている。私は北斎の版画に出てくるあの水のモダンなデフォルメ・デザインの多用はそれほど好きではない。むしろ彼の版画に出てくる野郎の雰囲気が好きである。北斎漫画はスケッチのお手本だと聞いているが今ではそれを復刻した本をやっぱり売っているんだと知る。
 北斎館の前に小布施堂のレストランがあって、ここの入口で栗アイスを売っている。これは本当の栗のチップが練り込んであるので美味しいという話で(といってもつれ合いの経験談)、二人でひとつを食べる。もうこの歳になると一人ひとつ食べるのはしんどい。確かにこれは美味しい。ここからその横を通る小径があってそれを歩いていくと市村とポストに名前を書いてあるお宅の庭を通り抜け(open gardenと書いてあるのだ)、もうカメラにとって頂戴ね、ここはまさにその為に作ってあるんだからね、といわんばかりに保存された土壁や昔風の木造の建物が建ち並ぶ。
 そこから駐車場を突っ切って通りに出てくるとそこが小布施堂だ。その横にある枡一市村酒造場に入る。入ってすぐの壁に面白い絵が描いてあってカウンターにおられ方にあの絵はどなたが描かれたのか、とお伺いすると昔から伝わる掛け軸の絵をもとに壁におこしたものだというお話だったけれどとても面白い絵である。ここのお酒は呑んだことがないから知らないけれど、容れ物が実に凝りに凝っている。陶器のものだったり、ターコイズブルーのようなガラスだったりする。最近の日本酒業界にはこの手の手法に走っている動きが一部にあることは私も知っている。枡一市村酒造場、小布施堂のグループ企業が小布施のこの一角を起こしたと云っても良いのだろうけれども、
 この一角にいてカメラを構えていると、なんとなく「良いからほっといてくれ」と云いたくなるようなイライラ感を感じることがある。徹底的に作られた雰囲気が私のその辺に刺さる。恵比寿のあの一角やら最近首都圏のあちこちに出没するなんとかタウンの様な雰囲気といったらよいのだろうか。軽井沢で云うと星野温泉が作り出した今度の宿泊システムといったら良いのか、あ、そうだ、テーマパーク造りの延長線といったらよいだろうか。生活臭がないことがテーマパークの原則とするとまさにそれである。それがなんだ、これだけの集客が出来たことの評価は大きいはずだと云うことになるのだろう。しかも周囲の街からしたら実に羨ましい限りだろう。小布施町の町長、市村良 三はその苗字からも分かるように小布施堂、枡一市村酒造場、それぞれの副社長である。
 中町南の交差点を曲がって駅前神宮通りを駅に向かう。すると角に「冨田酒造店」というかつては造り酒屋だったのだろうと思われる土壁のお店がある。土壁の建家は今にも崩れそうだが味が出ている。裏の降ろしてしまった「志賀泉」の看板やらどっ散らかった建材が生活を臭わす。
 小布施から長野電鉄に乗ると信州中野止まりだった。一度も信州中野の駅前を見ていなかったから一度外に出てみた。駅前には中山晋平の「♪かぁ〜さん、おかたをたたきましょぉ〜」の碑が建っていた。湯田中に辿りつくと雪になっていた。昨日出ていた露店に寄って林檎ジュースを買う。紅玉のジュースだとわざわざラベルが貼ってある。すっきりしていて美味しい。連れあいが湯田中の温泉街を見てくると雪の中を行く。
 風呂に入って身体を温める。すぐに眠気が襲う。振り払って夕食に行く。昼に蕎麦を堪能したから今日の夕飯は全然気にならん。寝る前にも勿論もう一度風呂を堪能する。雪が降り込んで露天風呂の温度は一気に下がっている。内湯にも露天にも誰もいない。