ほぼ足りてまだ欲 その先

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復活祭

 昨日の帰路東京に向かう中央高速の車中から見えた登ってくる満月がとても綺麗だった。20日春分の日の次の日が満月だったのは近年聞かなかった様な気がする。そして今日が日曜日だから今年の復活祭はこんなにまだ春浅き主日となっている。
 クリスマス・イブの時ほどではないけれど、それでもたくさんの人たちが集まっていた。いつもは初めて来た人、しばらく顔を見せなかった人(この中にも私は多分入らないほど知られていない)が最後に紹介されたりするけれど、今日は人が多かったから紹介されない。友人が出てくるのを待っていたけれど、どうやら練習があるらしくなかなか出てこなかったからそのままあとにした。
 直ぐ傍の公園では並木になっている染井吉野のうち、いつも陽当たりの良い、しかも北風が遮られるところから花がほころび初めて来た。来週の日曜日まで持つだろうか。多分その頃には風にぱらぱら落ち始めていることだろう。多分土曜日に仲間内の「花見の回」があるだろうから日曜日は呑みすぎて頭が痛くて出かけられないかも知れない。それならそんなに呑まなければよいのにそういう時はきっととことん呑んでしまうのが常の人生だから可能性は低いなぁ。
 バブルが崩壊してからこの国のあらゆる価値観は壊れてしまったのかも知れない。それなのにそれに直面するのが怖くてこの国の人たちはゲームだ、グルメだ、メールだ、サブカルだと走りまくって逃げているんじゃないのかといわれてしまった。それを否定するだけのバックグラウンドを持っていないなぁ。仰る通りだと思わず頷いてしまう。彼の話には説得力があるんだなぁ。
 そんな話を頭の片隅に残したまま旅用の上にはおる物を探しに行ったのが間違いだったのか、何を見てもぴんと来ず、しまいに某有名デパートに入ってみたら、一着で16万円なんて値札を見てしまい、何も買わずにただただ歩くだけで帰ってきた。そうだ、着るものがないわけじゃないんだから要らないじゃないか。
 復活祭というのは磔にされたイエス・キリストが復活したことをお祝いする日だけれども、これなくしてはこの宗教は成り立たないのだからともかく大前提の出来事だということだ。もともとはユダヤ教のなかのできごとであってキリスト教という宗教はその時点では存在していない。だから、一派だったわけだし、ある意味では新興宗教だったといっていいだろう。しかし、その後の新興宗教といったい何が違うんだろう。そこまで話を拡げてしまったらどうにもならないかも知れないから、すぼめたとしても戦後の新興宗教といったい何が違うんだろうか。ひとつにはその宗教を広めることによって誰か特定の人物、あるいはグループが他の人よりも金銭的にあるいは物量的に恵まれてしまうというのはもう既に本来的な宗教からは排除しても良いだろう。そしてもうひとつはそれに与することのない人をどう取り扱うのかという点は重要だろう。完全否定してしまうのであればもう既にそこで人間の本来的あり方としてもう意味がないだろう。ここまで考えてきて、こんなことはこんな容易な考えで著してはいけないのかも知れない。きっと「まずその宗教というそのものを定義せよ」「新興と在来の定義わけをせよ」といわれてしまうに違いない。それでも私の様なその辺のおっさんはこうして考えるくらいしか能がないのだ。
 歩いているうちに腹が減って腹が減ってしょうがなくなってきたがその辺で間に合わせで飯を喰うのもなんだか損した様な気がする。じゃ、今一体全体なんだったら双手をあげて食べるだろうかと考えるが、大したことはない。野菜がたっぷり入っているカレーを食べたいと思った。ならばと家に急いで帰り、玉葱、ピーマン、しめじ、カリフラワーをじゃっじゃっと炒め、そこにレトルトの(なんだ、レトルトか!)カレーを入れて煮た。それをご飯にかけて食べた。旨かった。