ほぼ足りてまだ欲 その先

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後期高齢者医療保険

 今日から保険料の天引きが始まるというので様々な出来事があってテレビ新聞報道は面白おかしく取り上げている。とにかく十分に知られていない制度でその周知徹底は困難を極めているばかりではなくて、各後期高齢者医療広域連合ごとにその足並みが揃わない上にシステムに伴う不始末も多発して頗る評判が良くない。
 福田首相が「丁寧に説明しなければいけない。厚生労働省総務省と一体となって制度定着に努めたい(産経ニュース 2008.4.15 13:12)」といい、町村官房長官は「保険料は7、8割の人は値下がりするのに(メディアは保険料の上がった)一部の人の声だけを出すのはいかがか。あまりにも混乱のみに焦点を絞って増幅するような報道は全体のバランスを失している(産経ニュース 2008.4.15 11:19)」と恨みを述べた。確かにそれはあるだろう。だけれども社会保険庁のあれだけの不祥事をいっかな解決できないまま、「まるで公約と誤解されかねない発言だった」などと言い訳を続ける政府・厚労省を見ていたらまず不信感を持ってみることになってもそりゃ文句は言えないだろうというものだ。
 この健康保険法等の一部の改正(国会の議事録にあるまま)は2006年6月13日の参議院厚生労働委員会強行採決され、さっそく翌日参議院本会議において賛成131-反対100で成立した。時の厚生労働大臣川崎二郎である。
 それ以降、各地の自治体はその自治体が構成する広域連合でどの様なことが行われるのかについて広報活動をしていた。私の地元でも区が配布する広報媒体でその説明を掲載してきた。しかし、余程のことがない限り住民はその詳細を理解しようとはしないだろう。なぜか。つまらないし、分かりにくいからである。だから、こうしてマス媒体が説明してくれて初めて分かる様になるのである。ましてやその対象者となっている高齢者が文字媒体を読むのにはなかなか苦労がある。いや、実は保険のシステムの中での医療費負担といえばその対象者は高齢者だけではないのだからもっと全体に訴える努力は必要だった。その点では町村君がいうのも意味があるのだけれど、それは全く違う観点で意味があるのである。
 本当のことをいうとこの種の議論は国会で議論されている時に取り上げられなくてはならないもので、強行採決されてしまえばもう厚労省官僚の思うがままなんである。だから、これから様々なことが議論をなくしては決まらない、いわゆる「ねじれ国会」は議会制民主主義の本来的な形なんだと云って良いだろう。
 強行採決される前、2006年6月8日の参議院厚生労働委員会日本共産党小池晃が当時の厚生労働省保険局長水田邦雄に「(この改正によって高齢者医療の)負担と給付の関係を明確にするということがいわれているけれど、それはなぜやるのか」と訊いている。水田は「高齢者の医療費は、まず高齢者の払った保険料がそれに充てられて、その残り部分についてはこれは国民全体で支える。そのお金の流れ、使途が極めてこれ明確になることで、今までの不満にこたえる」ことができるのだと説明する。
 小池は「何でそれをやるのか。知らせることによって、そういう負担関係を知らせることによってどういう効果を期待しているのか」と踏み込む。水田の説明は「若年者の方々の理解を得るためにこういった費用負担関係を明確にする」というもので効果について言及しない。たたみかける小池にこう繰り返す。「社会連帯の制度として維持するためには、やはりその使途が、後期高齢者なら後期高齢者のためだけに使われているものであることを財政的にもはっきりさせる、そうしたことを通じて被保険者の理解を得ようということ」だというのだ。
 小池ははっきりと断定する。「世代間連帯になりませんよ、そんなことやったって。世代間対立をあおるだけです」と。2000年に介護保険を創設して直後、介護保険は本当に利用されるだろうかという議論があったにもかかわらず、その利用は鰻登りに増加し、すぐに利用抑制策が講じられたことは小池の指摘にもある様であり、小池はこの改正もすぐに将来的には利用抑制に転じてしまうという懸念があると喝破した。
 老齢年金と共に高齢者医療もこういうシステムの中にあると、その中身が半分が国庫を含む税負担で成り立っていくことを考えるともう既に社会保険の体をなしていないことはあきらかだ。それをいつまでも「保険」という言葉を使って目眩ましをしていくのは限界がある。
 この中途半端な医療制度はひょっとするとあのまま小泉-竹中に任していたら米国のあの悪名の高い「金持ちのためだけの医療」というシステムに移行されていたのかも知れない。しかし、私たちもこの辺りで本当に腹を決めなくてはならないのではないだろうか。その「ひょっとしたら」のやり方に与していき、負担層がこれまで程にはいなくなるのだから「あきらめてもらう」のか、あるいは応能負担を徹底して高負担で国民皆医療システムを確立するのかである。これまでの企業のための国家作りをどこ憚ることなく進めてきた自民党と、与党であるという立場を入手するために母体宗教団体の信者を謀って霞ヶ関官僚の既得権も保持し続ける公明党の連立与党に任せていくのであれば、それは真ん中にいない層は切り捨てていくというシステムを押し続けていく姿勢を変えることには期待は持てないということだと納得するしかない。東京都民は400億円という金をそれまでに1000億円をつぶしてしまった男にくれてやったけれど、自分自身が切り捨てられるシステム作りに荷担するのは止めても良いのではないだろうか。
 「長生きしてもあんまり良いことはなさそうだなぁ・・・」という気にさせる深慮遠謀なのだろうか、これは。