ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

あ、今日は晦日だ

 慌ててお寺に塔婆をお願いするファックスを入れる。お盆の施餓鬼に戴くためには今日が締め切りだった。うちは今はなき父の実家も母の実家も日蓮宗で、本人たちが何もいいおいていかなかったので、そのまま日蓮宗のお寺で毎年盂蘭盆会をお願いしている。実は連れ合いの実家も日蓮宗なのでどちらかで法事があると流れるお経は同じである。たまにお世話になった方のお葬式なんかにお伺いして全く違う宗派のお経をお伺いするととても新鮮だったり、違和感があったり、戸惑ったりする。
 ところが実は私は国民の1%に過ぎない宗教の信者なので時と場合によっては社会に荒波を立てない方便をとることがある。そうしたセレモニーの時には周りの誰にも違和感がもたれないようにその場の流れに身を任せることになる。
 そういう点では、いってみたら神道のセレモニーだったりして、榊をどう回して良いのか戸惑ったりもしながら、前の人の振りを見て難なくこなそうと皆さんされている。
 キリスト教のセレモニーだと、今の仏教のようにお通夜にお伺いして、恭しく焼香するけれど、すぐにお清めと称してビールを飲んでしまって、そっちで「あはは!」と高笑いしながら昔話に興じてしまうのではなくて、一応の礼拝だから一通りの流れの中に自分を置いていなくてはならない。その間自分がひとりになって思い出し、かみしめる時間ができる。
 何もわからずにやってきてしばらく礼拝に耳を傾けていなくてはならなくていらいらしている企業の「おえらいさん」なんてものにでッ喰わすこともある。
 今の仏教セレモニーはほとんどの人が告別式の当日に来るのではなくて通夜の夕方に仕事帰りにちょっと寄ってお別れの挨拶をして終わりだ。
 こんな時に昔は良く向かっ腹を立てた。会社のある人が闘病生活の果てに若くしてなくなる。すると同期の連中やらお世話になった後輩やらが目をしばたたかせながら集まってくる。そこへ会社の「お偉いさん」が黒塗りで到着する。すると必ず庶務(もうこんな言葉使っている企業なんてないだろうなぁ)みたいな男が駆け寄ってお迎えし、ずらぁ〜っと並んでいる「下々の社員」を一瞥するでもなくそのまますぅ〜っと前に行ってしまい、あっさりと焼香をして帰って行ってしまう。遺族は「あの人が来てくれた」と喜ぶ。「故人もうかばれます」という。
 この列にみんなと一緒に並んで自分の胸の中で奴を偲び、前後の連中と奴について語ろうとすればいいのになぁと思ったりしたものだ。でもこの種の人、そしてそれをそのようにアレンジしてしまう周囲を見ていると、別に真剣に考えていたわけでもないのに、いつの間にか大脱走をすることになってしまってあたら命を失った「カウラの脱走兵」たちそのもののような気がする。
 保阪正康東京裁判に関しての著作を見ていると、あそこで尋問に答えている戦犯たちは本当のところは細かいところをきちんと押さえている奴は一人もいなくて、武士道やら葉隠れやら潔さやら、まぁ暴論を言ってしまえば「ええかっこしい」の発露だけであそこまで行ってしまったのではなかったかという気がする。「きさま!それでも男かぁ〜!」なんて怒鳴る姿が当時の「天下を取る男」像そのものだったと思っていたんじゃないだろうか。裁判の途中で死んでしまった国連脱退の松岡外相なんてまさにあそこで自分で自分の姿に舞い上がったんだろうなぁと想像する。
 そしてそれに呼応して「火の玉」になっていった状況もこれまた列に並ばないで焼香して帰った「お偉いさん」とそれを演出する周囲に似ているといったら的外れかな。
 「おえらいさん」は並んでみんなと、「おっ!元気かい、奴も早すぎたなぁ・・」と混ざっていたいのに、周りの人間があれよあれよという間にアレンジしてくれちゃう。これをいやこうしよう、あぁしようとやると後々何もかも自分でやり出さなきゃいけなくなるかも知れないし、彼らも困るだろうからとそのままにする。
 周囲の人間は、ちょっとでも不愉快なことがあってはならないから、すっと入っていただいてすぐに焼香ができるとこれが最上だと思う。ささ、慇懃に列を一回とぎれさせていただきますよぉん!と手配する。
 実は誰ひとりとして喜んでいないという姿だったりする。しかし、「そういうことするのはよそうよ」といったら波風が立つというわけだ。
 私も波風が立たないように塔婆の手配を無事終えた。