ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

いい加減にしないと

 日本の総理大臣は一応国の政治を司るリーダーなんだと理解している。だから国民がそうだ、こいつと一緒にこの国を作り上げていこうじゃないか、という気持ちになって初めて国民がついてくる訳なんだろうと思う。ここのところのなんだかまるでどこかの会社で事業部長が転職するかのように「ま、ここで私は身を引こうと思います」なんて気楽にぽいっと放り投げるような印象を与える総理大臣の辞めちゃうやり方にはどうにも軽々しい印象をぬぐえない。
 この軽々しさはどこから来るのかということなんだけれど、それは就任の時の軽々しさにあるといって良いのではないかという気がするんだけれど、どうだろう。今度の自民党という単なる集まり集団のリーダー選挙の様子をかいま見ていると、マスコミの報道のやり方にもよるのだろうけれど、そんなに慎重にやっているようにも思えない。
 どこかに大きな流れがあったら、それにのっちまえばあとの自分の立場の保身にも有効だという考えしかないからと解釈することで簡単に見えてしまう流れは、政治家集団としてははなはだお寒い。こんなに国会議員の数なんていらないんじゃないのか。だから暗闇の部分ばっかりできちゃうんじゃないのか。これを減らしたら相当に厳選されるばかりか、国政のコストも下がるだろう。これは地方政治の場でもそういえるのではないかと思うなぁ。
 「増税」という選択肢は選挙の上では不利になるという。いやいやそうはいってもここから先のこの社会を支えるシステムを充実させていく上ではよりコストが増大するんだから「増税」を真正面から捉えて議論のテーブルに載せるべきだという意見には耳を貸しても良いような気がする。
 しかし、その前にやることはたぁくさんある。それはやるんだと自民党という集団もいっていた「行政の無駄遣い」を排除するという、それはそれは細かい、そして緻密な作業を本当に今すぐに実行しなくてはどんどん手遅れになる。ここを面倒だからと、そのままにして先の話ばかりに熱中して目をくらませようとする、自民党公明党、そしてそれに結託する霞ヶ関の術中にはまっちゃやばいだろう。
 国民を馬鹿にしたように「自分を客観的に見ることができる」んだなんて、自分の仕事を放り出すときにいうような奴に、たったの一年弱とはいえ、この大事な仕事をやらせていた自民党公明党sponsored by創価学会は大いに責任があって、そんないい加減な連中が集まって当たり前のように次のリーダー選出を勝手にやられるのを黙ってみているわけにはいかない。ましてや、我々都民に大きな責任がある、あの公私の区別のつかない都知事の息子なんかにそんな仕事を任せるわけにはいかない。
 そうそう、その都知事やらあっちの国のブッシュのように、直接選挙にしたときにひとりひとりが「どうせ俺の一票くらい」といって間違った選択をしてしまうと大変悲惨な結果を招くんだというのもよくわかる。どんなやり方をしたらうまくいくのかをもう一度考えてみたいなぁ。