ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

喪中のはがき

 遠来の友達との待ち合わせに銀座の松坂屋に行くと、こんなところにバウムクーヘン屋さんができていた。
 ここの所郵便が来るたびに一枚、二枚と必ず喪中のはがきが入っている。私の友人たちは第1子だったとするとそろそろ親が80代後半にさしかかっているのだから無理もない。私のように第三子だったりすると親は90代後半にさしかかっている場合もあるくらいだから、もう大半は親がいない。そうして考えると物心が付いて親との間できちんとした話ができるようになってからその親を失うまでに半世紀もあるわけではなさそうだ。その上、思春期であればわけもなく親が疎ましいし、結婚して自分の家庭を持ってしまうと同居していない限り、なかなか日頃からの接触が少なくなる。
 親との繋がりがそれ程強い方ではなかった私は親と同居もしていなかったからそれ程深い話をした記憶があまりない。やたらと遠いところに暮らしていたわけでもなかったけれど、実家に行くのは年に数回あればいい方だったから人生の機微について話した想い出もあまりない。恥ずかしながら両親それぞれの全親戚について殆ど知らない。
 子どもの頃最も接触のあった母親の実家には母の妹がひとりいただけで、彼女には子どもが一人しかいなかったから、その従兄弟と叔母、そして叔母の旦那の三人が亡くなってしまった今となっては季節の挨拶が宅急便の手を借りて行き来するだけになってしまった。
 おやじの実家については親父(おやじ)自身が三男だったせいもあって私が行くことはほとんどなかったから今跡を継いでいる従兄弟の息子とは殆ど口をきいたことがないし、多分今顔を見てもわからない。
 三人いたはずの親父の従兄弟もひとりは十年ほど前になくなったそうだし、ひとりは要介護状態になっているようで年賀状の返事もそろそろ覚束ないようだ。もうひとりはどうなっているのか全くわからない。
 友人達から届く喪中はがきを見ると彼が何番目の子どもだったのだろうかということを類推することができそうだ。
 しかし、こんなことをいっては顰蹙を買うのだろうけれど、どうして喪中のはがきというのは味も素っ気もないのだろうか。反対にいって、決まり切った形の中に悲しみや惜別の念を込めてあるという見方もあるんだろうが。