ほぼ足りてまだ欲 その先

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浅学非才

 「浅学非才」といえば私もその中に含まれてしまうのだろうけれど、自民党の政治家で一括りにしてはならないかも知れないけれど、彼らのうちのかなりの数の人たちを私はそう評価したいと益々思うようになった。彼らは通常は私と同じように新聞あたりから得た知識をそのままなぞるだけだ。だから、当然そっち系の新聞の論調になる。概ね産経新聞系が多い。この辺は全く雑駁なとらえ方で、そこが浅学非才の最たる所以であることはお断りしておこう。
 だから、田母神某も充分に自民党の議員候補者になる資格がある。彼の場合は例の国会議事堂に向かって敬礼、いざとなれば現場で攻撃だと言い放つ佐藤某と良い勝負で、比例区ということになるんだろうから、当選する可能性は高い。そうなると今度は彼は文民ということになるわけで、今度は平気で防衛委員会かなんかで演説を垂れることができる。だもんだから一生懸命事前運動としてテレビに出演する。テレビマスコミなんて視聴率さえ上がれば良いんだから、くだらないものなんであるが、視聴者の大半はアハハと笑ってストレスを発散できればそれで良いんであって、私立の学校を選ぶときにその創始者の思想がどうであろうと偏差値ができるだけ高い、合格可能な学校であればよいと考える親と何ら変わりはないのだ。
 その結果、田母神某のあの軽佻浮薄な、表面的なもののいい方に簡単に慣らされてしまって、テレビがこれだけ使うんだからこの人はちゃんとした(どこが・・)人なんだろうと思いこんでしまう。松本人志がいうように、「この世界にいる人たちはもともとまともなシステムの社会からはじき出されてしまった人たちなんだから、そのまともな社会の価値観で判断されたらかなわない」というものだ。
 良くバラエティを見ていると、そこに出ている人たちのかつてのヤンキー時代の写真を提示したりするけれど、殆ど多くの人たちがそうした過去を背負って登場してきていることがわかる。そして彼らが露出度を高めれば高めるほど何もかも許して包括的に良い奴になる。そうした人たちと席を同じくすることによって田母神某だって包括的によい奴になるというわけだ。