ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

NHK

 総合テレビ午前1:40〜翌日午前3:10放映、ETV特集「ひとりと一匹たち 多摩川 河川敷の物語」。3月1日(日)本放送分の再放送。こういう番組を創ることができるのがNHKの特徴だろうけれど、再放送がこういう時間帯だというのが辛いところだ。もともと本放送の時間帯も、日曜日の夜10時からだから、なかなか見てもらえていないことだろう。
 淡々と多摩川河原に生きている人たちと、彼らが一緒に暮らしている小動物たちを記録し続けるのだけれど、云いたいことは明確に云っている。「おじさんたちは優しすぎてこの競争社会に勝ち残れなかったのではないのか」という言葉は重い。高度経済成長やバブル期に遣い捨てられてしまった人たちが自らの有り様を「自己責任」と語る、イヤ、語らせている社会の反映を考えなくてはならない。
 取材当時アルミ缶の買い取り価格がkgあたりわずか50円である。回収した50数kgがわずかに3000円弱。これで一緒に暮らしている猫や犬の餌を2000円ほども購入して与えている。ペットをおもちゃのように捨ててしまう人たちが片方にいて、その捨てられた小動物を僅かの収入で支えている人がいる。
 競走に打ち勝つ力を子どもにつけさせなくては、といういい方があるけれど、「うち勝つ」ということは「うち負ける」人もいるわけで、じゃ、「うち負けた」人たちはどうしたら良いのか。競走に勝つんだという思考のできない人たちはどうしたら良いのか。競走はなんのために役に立つのかと云ったら、結局は多くの富を手に入れると云うことになるのだろうか。
 私の人生を振り返ってみるとセレクションの過程で必ず「負け」を経験してきた。しかし、それからあとは次善の選択ができたわけで、大負けを経験しないで済んだだけだ。しかし、もし私がどこかの回で立ち直れなかったとしたらそこで大負けしていたといっても過言ではない。大負けか、次善の選択ができたところで小負けだったのかの違いにしか過ぎない。それだのに、あっち側とこっち側にいるに過ぎない。
 だからこそそうした競走に勝てる力を子どもにつけさせなくてはならないのだ、という論理はやっぱり負ける子を作り出す、というシステムではある。だからもし、競走に勝てる子を作り出すシステムを考えるのであれば、じゃ、負けた子はどうしたら良いのかを考えなくてはならないのではないだろうか。それが成熟した社会ではないのか。
 「俺はここまで勝ってきた、勝ってきた奴がなんで負けた奴の面倒を見なくてはならないというのか」というのが今の日本の社会保障システムではないのか。「ありとキリギリス」に出てくるキリギリスは若いときに青春を謳歌してしまう。だからしょうがないだろうと云うところにも問題があるけれど、じゃ、ずっと謳歌なんてしてこなかった人たちはどうなるのか。港区某有名私立大学経済学部教授が云っていることは勝った人がより勝つためにはどうするのかという話であって、こうした人たちがシステム作りに励んでいるんだから、負けた人たちは放り出されたままだ。
 台風の増水で流され、行方不明になった河原の住人が飼っていた猫のうち3匹が水が引いてから自力で戻ってきた。そのうちの1匹がとうとう死んだ。多摩川の猫たちを何年も見続けてきた写真家夫妻の奥さんがそれを見つけて声を掛ける。「ごめんね、ごめんね、ひとりで死なせてさぞ寂しかっただろうねぇ、おまえの人生はなんだったんだろうねぇ・・。」この言葉は本当に重い。