ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

フワフワ、フラフラするところ

 Twitterでフォローさせて戴いているこちらの方のつぶやきで知ったのは神戸女学院内田樹先生の「大学生活のツボのツボ」というお話である。
 私が初めて大学なるものに入ったのはもう40年以上前のことで、その時は今から考えると実に何も考えることもなく、ただただ社会に出て毎日決まり切った生活を送るようになってしまうまでの間のこの4年間を如何に面白おかしく暮らすかということだけで、先のことを何一つ見つめようとしないという今から考えると情けないだけの生活だった。
 だから内田樹先生のこの話の対象にすらあがっていない、本当は大学に来なくても良い類の学生で、当時良く云われていた職を得るための学歴作りにすぎなかった。実に不埒で功利主義的な考えであるが、当時はこれが当然のやり方で、その究極を極めるために国立一期校の受験があるのであって、その受験資格とでもいえるような成績を得られるのは中学の頃から学力テストに邁進し続ける生徒たちだったわけだ。面倒になってしまったり、他に楽しみを見付けてしまったり、ちょっとしたことでけっつまづいてその後挽回チャンスを見付けられなかったりするとそこから次の選択肢を選ぶことになる。私は邁進することが大人の術中にはまることになると、妙な反発心をいつも持ち続けてきたものだから中学受験の時点からネクスト・チョイスを選び続けてきた。結果として自分の好き勝手には生きてきたけれど、功利効率(そんな言葉があるのかどうか知らないけれど)は最低であった。
 当時から格差の拡大というものは存在していてむしろ世代間の継続は確定していたような気がする。中学卒業時点で就職する生徒が都内の私の学校でもクラスに4-5人は確実にいた。
 ところが長ずるに及んで二度目の大学生活を送ってみて、実に嬉しかったのはここで内田先生がいっておられるように、自らの興味が進むままにあっちをほじくり、こっちをほじくり、あるいは、発想してみたらそれをどんどん文字にしてみたり、その仮定の検証のためにあの人に聴いたり、この人と議論してみたり、自分の経験に照らしてみて文字にしてみたりということが、それまでの人生によって知らないうちに形作られてきた枠を外れて良い、ということだったのだ。

 自分を武装解除し、自分が無知、無垢、無防備であるという状態を許してキャンパスの中をフワフワ、フラフラする。大学とは、そういうふうに過ごすために作られた制度です。キャンパス内で目的なくふらふら歩いている学生をとがめる人はいません。何時間ベンチに座っていようが、図書館にこもっていようが、自分が取っていない授業をこっそり受講しよう、誰にもとがめられない。誰も監視していないし、誰にも自分のしていることを報告する義務がない。時間の使い方がこれだけ自由にできるのは一生のうちにほとんどありません。たぶん大学生のときと定年後だけです。
内田樹 神戸女学院大学 入試部長)

 
 そして私のその二度目の大学での恩師が岡田徹先生なのだけれど、この人は本当に底の見えない方で、何をぶつけても必ず深いところからヒントが跳ね返ってきて、そこから私があれをほじくり、これをほじくりとすることになった。だからもしあの先生にあそこで出会っていなかったなら今のようなものの考え方を展開することはなかっただろうし、今この時点で何をしていたのか想像もつかない。
 岡田先生の守備範囲は一体どこまでなのか、見当がつかないのだけれど、人間に守備範囲なんてものが存在しないようにそんなものはなくていいんだろう。なにしろ上野動物園の虎の檻の前で「吠えるぞ!」といって本当に「わおぉ〜!」と吠えた人を私は他に知らない。

 ほんとうはみなさんだって、大学に行きたい一番大きな理由は「わけのわからない人たち」に会いたいからなんです。そういう人たちにひっかきまわされて、自分が変わることを無意識には望んでいるはずなんです。「大学に入っても俺のスタイルは変えないぜ」とか「私の価値観はゆるがない」というようなことを言ってるうちダメです。
内田樹 神戸女学院大学 入試部長)

 この「わけのわからない人たち」の中にもうひとり、尾崎先生も加えておきたい。この人の言葉は怖い。私に対してだからだけではないと思うのだけれど、ツルッとした、手垢にまみれていない、それでいてそれ以上に的確なものが見あたらないというくらいに的を射た、飾りのついていない、そんな言葉で芯を突かれるからである。それでいて、また酒を飲み交わしたいという気持ちを持つ。

 こういう人たちに囲まれてこの10年間私は本当に幸せな時間を持った。こんな時間を少しでも多くの若い人たちが持つことができるととても良いのだけれどと思う。その為にはなにが必要なんだろうかと考えながら、また今日も遊ぶ。