ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ラジオ深夜便

 みんなの音楽会が終わってさっさと帰ってくると喉がいがらっぽいし、なんだかゾクゾクする感じがして、いやぁな雰囲気がする。暖かいものを食べて、風邪薬を飲んであっという間に寝てしまう。すると必然的に早朝に目覚めてしまう。
 蒲団にいるままにラジオに手を伸ばすと聞き慣れた声。ラジオ深夜便で作家の五木寛之が昭和23年頃の中学生の時代の話をしている。深夜便のサイトを見ると月曜日から「わが人生の歌語り 青年期」の再放送(再再放送くらいだろうか)が放送されているんだそうだ。
 五木は朝鮮半島から戦後帰ってきたのだそうだけれど、「異国の丘」という唄が彼にとっては帰国してきた九州が彼にとっての「異国」になるのだと聴いて、なるほどそういうことにもなるのかと気がつかされた。この唄はシベリア抑留兵の間で唄われ、それを昭和23年にNHKの素人のど自慢でシベリア復員兵の一人によって唄われて一気に流行ったのだそうだ。
 私がこの唄を一体いつ来いたのか分かるわけもないけれど、自分が産まれたあとの唄だったのだとは思わなかった。私にとっては子どもの頃神社のお祭りや縁日にいくと白い病院服のようなものを着て松葉杖を突き、傍らに同じような格好をしてアコーディオンもしくはハーモニカを吹く人を従えてこの歌を唄う、いわゆる傷病兵のことだ。まだ私が小学校に入るか入らないかの頃だろうから昭和20年代の終わりの頃のことだろう。私にとってもこの唄は違った意味の戦争を引きずる唄だった。あの曲のリズムが行進、それも足にゲートルを巻き、カーキ色の服を着た兵の行進を思い起こさせるものであることも私にとっては「否定的」なニュアンスをいだかせるものだった。
 五木がいうように斯様に同じような唄がひとりひとりの当時の生活を色濃く映し出すものとなるわけで、こういう話を聞くと自分に当てはめて想い出すものなんだなぁと早朝のコーヒーを飲みながら思った。
 同じくこの年の曲として「東京の屋根の下」が灰田勝彦の唄で流れる。今聴くとこの時代にようやく「敵性語」が解禁になったんだなぁとよく分かる、プロムナード、アベック、パラダイス、レビュー、キャピタルなんて言葉が連なっている。戦争に負けて堂々と口にできるようになったんだというそんな状況がわからないとなんて古くさい言葉だろうという印象を持つことになるのだろうけれど、開放感というものが現れていたんだろうなぁ。それにしてもなんで灰田勝彦はこんなに鼻にかけた歌い方をしていたんだろう。なにか特別な意味があるのだろうなぁ。
 この唄のタイトルから「東京ラプソディー」という唄を想い出した。うちのオフクロがこの唄を良く唄っていたのを覚えている。♪「ティー・ルーム」というところをずっと♪「しぃ〜ずぅう〜む」だと思って唄っていたという話だ。そんな話をする時のオフクロは決まって機嫌が良いときだったのだ。私のおしゃべりさ加減は確実に彼女の血を継いでいるとは思うのだけれど、喋り方はオヤジの血を継いでいる。この唄はずっと前の唄で昭和11年、1936年の唄だという。これは藤山一郎だ。