ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

結婚、出産、介護

 なんで結婚するの?という疑問が湧いてくる時ってのが今の人たちにはあるらしい。私のことに振り返って考えて見ると、なんのため、なんてものは全くなかったなぁ。結婚したいからしたんだ。目的意識がないっちゃないんだが、理由があってするものだなんて考えたこともなかった。
 なんで子どもを作るのか、という点についても同じだった。結婚したら子どもが生まれてくるのは当たり前だと思っていた。だから、結婚してから5年間子どもができないというのはなんでなのかと思ったりもしたけれど、それならそれでも良いやと思った。自然の成り行きが普通のことだと思ったから。それが5年経って息子が生まれてきたと思ったら、その数年後には娘が生まれてきた。なんのために子どもを作るのか、あるいは作らないのか、なんて考えてもいなかった。代々そうして家族を続けてきていてそれが普通のことだった。
 父親は、あっちが悪くなったり、こっちが悪くなったりしていたのだけれど、ある日突然病院で死んだ。黄疸で入院したということも知らなかったものだから余りにも突然で驚いた。おふくろは少しずつ衰えていって、とうとう認知症になって数年、姉と介護するうちに老衰で死んだ。介護している最中に、一番上の姉がなぜかおふくろに辛く当たるので、直ぐ上の姉と私の連れあいが主として介護に当たった。いろいろあったけれど、無事に看取った。なんのために介護にあたるのかなんて考えたことなんてなかった。息子だったからに相違ない。
 どうしてこうしたことの理由を考えるようになってきてしまったんだろうか。
 この先特殊出生率がこのままでは、将来の日本は高齢者を支える労働者層が払底してしまうぞ。だから、子どもを増やさなくてはならない。なんで増えないのか。結婚する人が減少しているからだ。なんで結婚しないんだろう。なんで結婚という制度に縛られなくてはならないんだろう。これからの日本は家庭での介護はその担い手がいなくなってしまうから、子どもを、いや、家庭を、いやいや結婚願望が・・・。
 人手を確保するために家庭というものが存在していたのだろうか。家庭というものが存在していたから、たまたま労働の担い手が存在していたという結果論だったのだろうか。
 残念ながら私は企業労働しか知らない人生を送ってきたので、考え方に偏りがあるのかもしれないけれど、家庭は労働の母港だと思っていた。
 どうもこの考え方は今の時代には主流ではなくなりつつあるのかも知れない。個+個がつながりの基本なのかもしれない。だから、癒しを求める先は個、あるいは家族の外に存在しているかの如くに見えるし、それはコマーシャリズムの提供物におおよそ頼っているかの如くに見える。
 思春期の頃、自分がその中にいる家族というコミュニティーがいやで堪らなかった。なんだか今の社会はそのままのような気がする。
 そうかといって、これは何を準備したから変わるというものではないだろう。人の意識というものが制度によって変えられるかといったらそんなことはないと思う。だけれども、「やりやすい制度」は人にきっかけを与えるんだろうと期待する。