ほぼ足りてまだ欲 その先

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大森

 今古本屋さんではもちろんのこと、あちこちで話題になっている「昔日の客」の著者、関口良雄が開業していた古本屋の「山王書房」は臼田坂下にあったという。大森の駅から池上通りを蒲田方向、つまり西に行き、左に元大田区役所だった、今の太田文化の森の角を右に曲がる。この道は直ぐに坂になるけれど、それを臼田坂という。その坂の手前に臼田坂下というバス停がある。その山王書房はこの角を右に曲がった直ぐの右手にあったそうだ。
 私が二年生から通っていた中学校はその臼田坂下のバス停から左に入った先にある。今でもある。だから当時の私は多分、その店の前を歩いていたはずだけれど、その頃の私にその記憶はない。ないのだけれど、どうもその「山王書房」という名前にはなにか懐かしさがあるような、いや、そんなことはない、あの近辺に山王という地名がついた店はいくらもあったからだろうという気がしないでもない。
 彼が亡くなった大森赤十字病院には私はリアカーに乗せられて中学校から運ばれたことがある。誰が引っ張ってくれていたのか全く覚えていない。それは中学二年の秋、運動会の予行演習があった時のことで、当時の予行演習はあたかも本番さながらであったけれど、唯一違っているのは、場所の広さだ。なにしろ私たち二年生はA組からP組まで16組もあって、その一年下は14組だった。一年上の三年生が何組あったのかは覚えていないけれど、とにかく教室が足りなくて、プレハブ教室が校庭を占めていた。だから本番は芝公園にまで出張っていったのである。ところが私はその予行演習での騎馬戦で心棒を勤めていたものだから、本能的に頭を下げて敵の馬に突っ込んでいった。当然思い切ってぶつかれば首はどちらかに曲がるはずで、私の頭は右に曲がった。おかげで右後頭部がしびれ、動けなくなった。それで日赤に運ばれたのだけれど、何といって打つ手がないらしく、2-3日おきに静脈注射を打ちに通った。当然運動会の本番は怪我による休場で、見学者の一人だったからその運動会の写真は私が撮ったものが今でも残っている。
 作家の沢木耕太郎は近所に住んでいたとかで、中学の頃から店に足を運んでいたという。彼は1947年11月29日の生まれで高校は都立南高校だとWikipediaに書いてあるから、多分中学は公立だろうと思われるけれど、ひょっとしたら同じ中学だった可能性があるし、もしそうだとしたら同期生に当たる。しかし、彼は本名を明かさないから誰のことだかわからない。都立南校は私たちが高校に進学する時にできた高校で、入学試験は私たちの中学の校舎を使って行われたという記憶がある。私たちが受験でいなかったのは分かるけれど、下級生たちはあの日は休みになったのだろうか。