ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

慢心

 中学生の頃の私はマンモス校と呼ばれる学校に通っていました。なにしろ学年のクラスがP組まであったんです。つまり16組あったということです。当時一クラスに55名ほどいましたから、一学年に880名ほどいたことになります。下の学年はM組まであって、その下もM組までありましたから私が三年の時には全校で2,200名はいたことになります。だから、全校生徒会というものが年に一回だったか開かれるときにはバスケットボールのコートが二面できる体育館に入りきらなくて、各自が教室の椅子をもって校庭に出て、青空集会となっておりました。
 この頃はいわゆる業者テストというものを毎月実施しておりました。なにしろ受験戦争といわれていた時代で、高校進学で都立の学区のトップ高に何人受かるのかという尺度で中学が評価されておりましたが、この中学からは毎年トップ高へ30-40名は合格していたわけです。そのトップ高が東大合格者のトップスリーに入っていた時代です。当時、その業者テストの結果を学年上位15%を廊下に張り出したりしていました。私はいつもその終わりの方に載っていました。つまり100位ぐらいだったということでしょうか。これなら都立ならどこかに紛れることができると安心していました。全然勉強なんてしませんでした。それでこれですから、当然生意気盛りのガキは慢心します。
 結局都立高校の一発九科目受験で、上から4番目といわれる学校への合格点に3点足りませんでした。なんでそんなことがわかるのかというと、当時問題用紙を持って帰ることができるので、そこへ自分が選択した答をマークして帰ってきたからです。
 それで、下から4番目の都立高に入学しました。そこではN組まであって一学年に550名ぐらいいました。そこでも業者テストを毎月やっていました。そこでもそこそこの順位にいました。当然慢心します。落語やバンドにかまけ、英語だけ勉強して、他は捨てました。それでも喰っていけるだろうと慢心していたわけです。
 大学へ入ってからはもう全然勉強しなくなりました。もういいやと思っていました。慢心していたのです。周りも勉強しませんから。
 つまり、ずっと「慢心」と共に暮らしてきたんです。勿体なかったなぁ。