ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

松崎運之助

 映画「学校」の西田敏行のモデルだった夜間中学の先生。1945年満州生まれ。この映画のことでこの人のことはかなり多くの人が認識しているのだそうだ。私は山田洋次監督のこの映画を全く見ていないからどの様に映画で描かれているのかを知らない。
 今朝、アジア杯サッカーをただただひたすらテレビの音声だけを聞くことだけで耐え、優勝が決まってからのスタジアムの様子をNHK BS-1で午前3時頃まで見続けたあと、なんだかんだで寝床についたのは4時を過ぎていた。ラジオをつけると、ぼそぼそ語る、その割に良く聴くと饒舌なおじさんの話がラジオ深夜便で流れてきた。今時ことさら辛い人生の話を聴くのもなんだなぁと思いながらも変えるに変えられずに聞いていると、話は信じられない展開だった。それがこの人のお母さんの話だった。
 私が聞き始めたのは父親が家族にも知らせずに家を売り払っていなくなってしまったというところからだ。途中の話から満州で生まれて引き上げて来る途中で兄を亡くしたが、長崎にきてから下の二人の兄弟ができていたことがわかる。家と働き手をなくし子ども三人を連れて知り合いの家を点々としたという。他人の家にやっかいになっているからと夜になると直ぐに電気を消し、子ども三人は母の元に寄り添うようにして母親の話を聴いたそうだ。そのうちに長崎の川に柱を立てて置いたようなバラックに住むようになり、力仕事に出ていた母親が帰ってくるのを三人で迎えに行って母親に夢中になって話したという。誕生日になると子どもたちは正座をして母親がしてくれる自分が生まれた日の話を聴いたものだそうだ。
 40歳になったときに、初めて母親から貰った誕生日のプレゼントは大学ノート3冊に綿々と綴られた自分の半生だったそうだ。
 松崎運之助は三菱長崎で働きながらの定時制高校を卒業後上京して明治大二部に通い、夜間中学の教師となった。その時の話が映画「学校」になったのだけれど、彼と彼の母親との関係を聞いていると、人間の暮らしというものは人と人との繋がりをどの様な視点で見ることができるのだろうかということに随分依っているということだけれど、それは随分前にわかっていたことだったのに、随分長いこと見つめることを忘れてしまっていたんだなぁということだった。
 夜間中学というのは文部省から認められた存在ではないのだということをずいぶん昔に聞いたことがある。なぜなら中学というのは義務教育であり、親はその子どもに教育を受けさせる義務があるので、働きながら、あるいは昼行かれないからいくというものではないと公的に認識されてはいなかったというのである。考えて見ればその通りで、その話をある先輩の妹さんで夜間中学で働いていた人のことから知ったときは随分びっくりした。それくらい私にとって特別の存在だった気がしていなかった。あって当たり前に思っていた。
 かつては戦後のごたごたで中学に行かれなかった人たちはたくさんいたはずだ。そして、松崎の話に出てくるようなバラックに暮らしている人たちというのも私が小学校に上がる頃には普通の存在だった。さぞかし辛い生活だったろうと思っていたけれど、松崎の話を聴いていると、家族のひとりひとりの要素というものが実に重要だっただろうという気がするが、私はとっくにそんなことを考えることを忘れていた。それは感謝という意味合いを考えてこなかったということかも知れない。
 松崎運之助の著作多数。

母からの贈りもの

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人生―わが街の灯

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