ほぼ足りてまだ欲 その先

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23番

 昨日の夜中に寝床に入ってからラジオをつけたら、ラジオ深夜便にどこかで聞いたような話し声なんである。一体誰だろうか、と思ったらかつての阪神タイガースの牛若丸、吉田義男である。多分この番組は去年放送されたものなんだろう。彼はこの時点で多分76歳だろうけれど、喋り方は全然変わっていない。
 私は小学生の頃、近所のガキどもの間で野球をやるのに、学校で使った体育着に自分で黒い布を切って背中に背番号を縫い付けていた。これを小学校低学年の時に自分でやっていたんだから野球の才能は全くないのに、格好つける術については驚くべき熱中度である。
 しかし、なんで私が吉田義男を好きだったのかというと、それは自分もチビだったからである。吉田義男はいくらあの時代とはいえ、プロ野球選手だというのに170cmないというチビである。ま、私の場合は中学一年生の時に年間に10cm身長が伸びたというのに、それでも160cm丁度くらいだったのだから、そこまでもいかなかったのであるけれど。
 いざ野球をやるということになると、その格好で近所の広場に向かうわけだ。足下はと見ると、白いトレーパン(トレーパンはみんな白いが)の裾にパンツゴムを入れて絞り、膝下にして、その下には白いロングソックス。その上にもう踵がすり切れそうになった親父の黒い靴下の先と踵をはさみで切り取っただけのストッキングをはいているのだった。
 その格好で歩いていると、(これは前にも書いたけれど)近所に住んでいる国鉄スワローズの飯田徳治の親父が「23番頑張れ!」と声を掛けてきたものだった。飯田徳治も23番だったのである。
 吉田義男は1985年の阪神優勝時の監督である。優勝が決まったあの試合は神宮球場で対ヤクルト戦だった。延長10回裏、ピッチャーは中西。最後のバッターをピッチャーゴロに打ち取って、5-5の引き分けで優勝だった。私はラジオで聴いていた。
 あの年の開幕直後の対巨人三連戦のことを吉田義男はひどく克明に憶えているのが印象的だった。チームの本塁打記録もさることながら、犠打数が驚くほど多かったことが自慢のようだ。「当たり前のことを当たり前にやれ」といっていたというけれど、けだし名言である。
 吉田は打球を「捕る前にもう一塁に投げている」といわれているくらいの名手だったのだけれど、ファーストの遠井吾郎がベースに入る前に送球が送られてくるので、遠井吾郎から「もう少しゆっくり投げてくれといわれたのだけれど、それをやると私がエラーをしてしまうんですわ」と話していたのには舌を巻いた。