ほぼ足りてまだ欲 その先

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コスト

 結局なんだかんだいっても日本の原発の状況をこれまで聴いてくると、コストの掛かることでも防災に関することはやらないできたということだ。というのは何しろ何か一旦ことが起きたら大変なことになるのだから、それを見越して防災にコストをかけていくとすると、とことんやらなくてはならなくなる。
 貞観地震による津波の規模を知ってしまうと、福島第一原発では非常用発電施設をバックヤードの高いところに移すしかなくなって、その間の配電ケーブルもその際に考えられるダメージから回避できる設計にしなくてはならない。すると、防潮に関しての観点から堅固なる城塞を築かなくてはならなくなるわけで、それに拘わるコストは膨大なものになることは目に見えている。
 だから、やらなかった。しかし、今そんなことを公式見解として口にするわけにはいかない。しかし、よく考えてみるとこれまでの電力会社の電力計算式としてはそれだけコストが掛かっても電気料金に上乗せできるはずだ。にもかかわらずやらなかったのはなぜか。電力料金が上がりすぎてしまうというのは一つの理由だっただろう。もうひとつは「大丈夫!」な筈の原発の設定がそうじゃなかったということがばれてしまうということがある。
 しかし、こうしたことはこの原発だけに限らないのはいうまでもない。とことんコストをかければ全く周囲に影響を及ぼさないことができるにもかかわらず、それではコストが掛かりすぎるからということでお茶を濁してきたシステムや装置、プラントというものは引きも切らない。
 水俣病だって正にその一つではないか。水銀を捨てて周辺の住民に影響がないと思っていただなんて信じられる話じゃない。日本の産業界にとっては日本チッソの製品はなくてはならないものだったから、周辺の住民については目をつぶっても良い、という感覚に通じるものがある。

 日本の農業は今や重油がなくなったら立ちゆかなくなる部分が大きな割合を占めているといわれている。本来的にはこんな需要が本当に存在していたのかは疑わしい。日本の農業の保護政策を外圧(有り体に言えば米国)によって揺さぶられて普通の農産物が勝てなくなるということを見越して、期ずれの作物を作れば珍しいということで価格を高く保つことができるから、何もかもハウスで栽培しようとする。本来日本では南国果物野菜は無理としても、ほぼ何でも栽培できるのに敢えてハウスにして旬の時期ではないのに、年中入手できるようになった。便利だ、消費する方は。冬にも胡瓜はあってサラダにも出てくる。本来的にはおかしい。イチゴが真冬に出てくる。本当はそんなはずはない。みんな不自然な時期に出荷できるようにして日本の農業は存在している。
 化石燃料がなくなったらどうするのか。その時まで私は生きていないからどうでも良い。これでは自然災害があったらどうなるのか。その時は食べなきゃ良いってことなのか。高台から日本の農業生産地を見下ろしてみるとあっちもこっちもビニールだらけだ。