ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

日光街道

 散歩も今日で三日目なので、明日は多分行かないだろう。なにしろ生まれついての三日坊主の人生を送ってきたのだから、明日まで散歩に行ったことにはこれまでの人生を根本的に覆すことになってしまうではないか。
 ふと思い立って北千住の駅ってどれほど離れているんだろうかと思ったらそれほどのこともなくて、たかだか4kmほどだということがわかった。じゃ、行けるかどうかわからないけれど、歩いてみようと思い立った。
 地図で見たら日光街道を歩けば良いんだってことだった。だから、ただひたすら歩くだけだ。しかし、一昨日も昨日も思ったことだけれど、歩いていて、何となく真っ直ぐじゃなくて、千鳥足になっているんじゃないかという気がするのだ。これは典型的な加齢現象なんだろうなぁ。
 昔はこの通りを車で走ったものだったけれど、それは一体どこへ行こうとしてこんな通りを走ったんだろうか。せいぜい越谷へ行ったくらいのことだろうか。
 三ノ輪で明治通り日光街道が交差する。その先の日光街道は急に狭くなってしまうという印象だけれど、それは常磐線のガードをくぐるからなのか。それにしても常磐線という線はなんでこんなところでクネクネに走っているのだろうか。上野から北東に向かって走ってきた線路は鶯谷のところで突然北西に舵を切ったかと思うと日暮里を過ぎたらやおら真東に向かい、日光街道を横切ったあとでまたまた北東に向かっていく。上野からそのまま北東に向かいっぱなしで良かったはずなのに。で、このあたりは昭和のまんまに残っているものだから、ひとつひとつの建物はやたら小振りにできている。屋根低く、間口狭く奥行き短く。
 しばらく行くと左手にこんな仏様がたっている。車で走っていた頃にはこの仏様には全く気がつかなかったけれど、あの頃にもう既にキンキラキンに立っていたのだろうか。彰義隊の隊員の墓があると書いてあるんだけれど、中には入らなかった。当時上野のお山に建っていた黒門もここに移築されているんだと、帰ってきてからウィキペディアで知った。本当に便利な世の中になった。帰ってきてから知ったと云えばここに𠮷展ちゃんのお地蔵様というのが建っているのだそうだ。𠮷展ちゃん事件のあの𠮷展ちゃんの遺体が見つかったのがこのお寺だったのだそうだ。𠮷展ちゃんといったら誘拐されたのが入谷南公園だったことを想い出す。で、ウィッキペディアで探すと、なんと当時藤田敏雄作詞、いずみたく作曲、宮川泰編曲で「かえしておくれ 今すぐに」という歌がザ・ピーナッツ市川染五郎を初めとした競作で発売されたと書かれていてビックリした。

 その先に行くとやっぱり左側に御鎮座1200年をこえるという素盞雄神社がある。さすがに街道筋にはこうした名のある立派な神社がある。ここの祭りは6月の3-4日ってことになっているらしいけれど、神輿は千貫で四間半長柄二本の二天棒だと書いてある。実は直ぐさまこの神社がなんていう名前なのかわからずに、行き過ぎた。本殿前の参道に小さな幟が何本も指してあるのが随分珍しくて目がいった。
 千住大橋日光街道を走るとこれを超えると都内から飛び出したような気がしたものだ。ずっと以前にも確かこの橋を歩いて渡った記憶があるのだけれど、それが一体いつのことで、一体何を企図して敢行したのか、全く記憶がない。人間の記憶媒体というものは随分と容量が小さなもので、その上劣化も激しく、ひょっとすると磁気テープかなんかが頭の中で引っかかりながら廻っているんじゃないかと思うほどだ。
 というのはこの「八紘一宇」の石碑になんだか見覚えがあるのだ。これを書いたのは誰かと思ったら、左の下に陸軍大臣林銑十郎とある。この人は陸軍大臣から総理大臣までやった人で、1931年(昭和6年)に関東軍の要請で独断で満州に進撃したという乱暴者らしい。しかし、本当かどうか知らないけれど、ウィッキペディアには優柔不断、影響を受けやすいものだから「猫にも虎にもなる」と石原完爾をしていわしめたと書かれているけれど、その一方、「謹厳、温厚だった。酒は一切飲まず、晩年は煙草も、唯一の趣味だったビリヤードもやめた。本人はイスラムじゃなかったけれど、大日本回教会の会長もつとめた」と書いてある。
 「八紘一宇」ということばはまたも日本書紀から来るらしいけれど、本来的には「道義的に天下を一つの家のようにする」ということだったらしいけれど(相変わらずウィッキペディアから引用)、アジア太平洋戦争ではあたかも世界統一かの如き響きを持って使われていた傾向が大いにあったことは明らかだ。しかし、多分今の時代の一部にはきっとそんなニュアンスは勝手に連合国が創ったものだくらいなことは言い出しかねない。そうやって払拭して片っ端からなかったことにしちゃうの得意だからね。
 足立市場の前を渡ると右手に「千住宿 奥の細道」と書かれたところがあって、そこに松尾芭蕉が立っている。芭蕉はここまで深川から船で来て、ここから奥の細道を辿る旅が始まったんだそうで、時はまさに1689年3月27日(新暦5月16日)のことなんだそうである。松尾芭蕉生誕360年記念事業としてこんな像が立ったんだそうだ。似ているのかいないのかは知らない。
 この先に同じく芭蕉の句碑として「鮎の子の しら魚送る 別哉」というのが建っているんだけれど、この句は殆ど聴いたことがない。多分別離に際した発句なんだろうけれど。
 墨堤通りを渡るまでは旧街道の沿線はあっちもこっちも古い建物があったところが解体されて更地になっていたり、マンション工事中だったりで、めったやたらと集合住宅化に益々拍車がかかっているように見える。考えてみれば北千住ってのはなんたって鉄道が何本も通っていて、今や都心に出るには便利この上なくって、住民がどんどん増えておかしくない。
 駅前通りのブックオフを冷やかしてから西口のあの飲み屋街は昼間通るとどうなっているのかと思っていって見た。ここへ来るのももう10年ぶりくらいかも知れないけれど、殆ど雰囲気は変わっていない。多分あっちもこっちも店自体は変わっているのかも知れないけれど、通りそのものは全然変わった風も見えない。地下通路を通って東口に出ると、TDUと書いたえらく高くてごく最近のものと思える背の高いビルが建っていて、一体何だと思ったら東京電機大学だ。ほぉ、こんなところに来ていたのかと、世の中の動きに置いてきぼりになったおっさんは「かつや」と区別がつきにくい「松乃屋」に入ってヒレカツ定食を食べた。こういう類はつれあいと一緒だと食べない。こういう時にしきゃ食べられないので、最初から狙っていた。