日本が金メダルがないという声が聞こえてくるけれど、そんなことはどうでも良いと思えてくるのがパラリンピックだという気がする。メダルの意味よりはここで活動できるほどにサバイバルした人たちの日頃の暮らしに思いを致すことができるんだからもうそれだけでパラリンピックの意義は大きい。むしろオリンピックよりも数段意義は大きい。
しかし、こうしてハイレベルな競技ができるという環境を構築できる日常生活の環境があるかどうかが大きな差になる。身体障がいや知的障がいと一緒に暮らしている人たちが生きがいを持って暮らせる環境にあるかどうかというのはかなり大きな差だろう。
この場にでてくることができない地域の人たちの方が遥かに多い。大馬鹿野郎の石原慎太郎が都知事時代にひどいことをいっていたけれど、彼が若かった頃は社会の大半が障害を持つ人たちを邪魔者扱いをしていた。まだそこに留まっている社会はこの地球上にはいくらもある。慎太郎はそのまま時間が止まった人間だということだ。ヘイトスピーチを平気で大きな声で人目を憚らずするような人間はまったく時代遅れの一周遅れなのだ。それを許す環境を構築しているのはまさに安倍晋三だ。
そうした人たちが目をそらすわけにはいかない状況になるだけでも、パラリンピックの意味はある。民放ももっと放送すれば良いのに、オリンピックのように。
しかし、あべしんぞう自公政権は弱者を排除することに懸命だ。介護保険もぶちこわし、沖縄もぶちこわす。