ほぼ足りてまだ欲 その先

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相田洋 「南米移住は運だ!」

 相田洋(あいだ ゆたか)は元NHKのプロデューサーである。今年85歳である。この名前は覚えられない。「洋」とかいて「ゆたか」と読ませるのはこれまで見たことがない。普通は「ひろし」だろう。

相田洋の作品で「NHKスペシャル 南米移住シリーズ」というものがある。
最初の作品は「ある人生 乗船名簿AR29」で1968年の作品である。
AR29というのは大阪商船三井船舶の「あるぜんちな丸29次航海」を意味する。
当時、あるぜんちな丸、ぶらじる丸といういわゆる「移民船」と呼ばれる姉妹船が運航されていた。
建造されたのはあるぜんちな丸が1958年、ぶらじる丸が1954年である。

南米移民はもちろん戦前から行われていたが、移民が入っていく先は様々で、条件が抜群、なんていう状況はもちろんあるわけがない。
この航海を相田が追い始めたきっかけは、岩手県岩手郡の山深い寒村に開拓者として暮らしていた伊東勇雄老人〔当時69歳〕を取材したところから始まったそうだ。
伊東勇雄は武者小路実篤の「新しき村」の信奉者のひとりで、ここが開拓に入った三箇所目であり、それにもかかわらず一家を挙げてパラグアイに移住をしようというのである。
周辺の住民に一緒に移住しないかと説得する。
しかし、南米の、それもパラグアイに移住しようという賛同者は現れない。
それを取材している相田洋は一度現地を訪れたことがある伊藤老人が船旅の良さを説明しているのを聞いていて違和感を覚えたという。
それは、彼自身が戦後朝鮮半島からの引揚者で、そんな良いものじゃないと思ったというのだ。
伊藤老人は飛行機で行っていて、船で49日を掛けてブエノスアイレスに行き、そこから陸路延々とパラグアイに行ったわけではなかった。
家族だけになってしまったが、伊藤一家は先発隊を出し、二次にわたってパラグアイへ入る。
その船内で、相田洋は乗客にインタビューを試みる。この航路はハワイ経由、ロス・エンジェルスに寄港して、そこからパナマ運河を通り、カリブ海へ出て、キュラソー、ラガイラ、ときて、ブラジルのベレンでアマゾンを遡る人たちを降ろし、リオ・デ・ジャネイロ、サントス、そしてブエノスアイレスからまた日本へ帰るという航海である。ブエノスアイレスまでなんと49日。
Los Angelesで降りるのは観光客や商用利用、留学生といった人たちで、そこを出るとあとは移民する人たちばかりになる。

 この番組の凄いのは、相田洋が同じスタッフで、その後のフォローを番組にしたことだ。
1978年に「移住10年目の乗船名簿」、1988年に「移住20年目の乗船名簿」、2000年に「移住31年目の乗船名簿」、2018年に「移住 50年目の乗船名簿」が作られて、放送された。
その全てが今YouTubeで見ることができるのも、驚きである。
しかも、本編だけでなく、相田洋本人の裏話も見ることができる。
なお、40年目がないのは、相田洋が母親の介護に当たっていたため取材に出ることができなかったのだそうだ。

「50年目」は「前編・中編・後編」とたっぷり時間を掛けて作品化されている。
私は「50年目」をたまたまテレビで録画していて、とても興味深く見た記憶がある。

某大学の先生の「社会人ゼミ」というオンラインの集まりで、ブラジル移民に詳しい方がおられて、この番組が取り上げられることになり、昨晩から今朝に掛け、ほぼ徹夜でこの全てをYouTubeで見た。
50年間、取材を続けるというのは並大抵の集中力では実現できない。

日本の貧しかった戦前からここにいたるまでには、数々の苦しい、貧しい、人生があっちにもこっちにもあり、それが綿々とつながっている。
戦後の南米移民の人たちの中には、戦前の満州移民から敗戦の引き上げを経験して帰国して、もう一度日本の山奥に入植し、結局地味の悪い、生産効率の悪い土地を諦めて、南米に足を向けた人たちが少なくない。
しかも、満州だけでなく、南米でも、あたかもひと頃の「王道楽土」のような謳い文句で入植していった人たちも少なくない。
ドミニカ共和国から命からがら逃げるように帰ってきた人たちの訴訟を思い出した。
巧くいった人たちもいるけれど、「AR29次航海」で渡った人たちのその後の人生は全く波瀾万丈だ。


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 (この本を読んで「カチンコ」の本当の役割を知った。それまではなんでわざわざカチンと音をさせるのかわからなかった。)

 私は1967年のある日、横浜港での荷物積み込みのアルバイトに行った。
当時、このアルバイトは一日働くと、1,200円という破格の報酬になるといって、今は亡き幼友達が持ってきた。
なにしろ池袋の洋品店のアルバイトが一日店にいて、600円だった。
午前中はこれが最後の航海になるというおんぼろ船の三等船室に、中国人移民が持っていくという、それはそれは〔へなちょこ学生には〕重たいワカメがぎっしり入ったズタ袋を放り込む仕事にヘトヘトになった。
午後は〔こいつは使えないとわかったらしく)車で各船に郵便物を届けた。
その時に大桟橋だったかに停泊していた「あるぜんちな丸」に届けに行った記憶がある。