ほぼ足りてまだ欲 その先

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風の音

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 静岡県・清水は今では静岡市清水区になってしまったが、かつては清水は静岡に対抗する存在だった。もちろん静岡は徳川家康の居城駿府城の城下町だから、その辺の田舎漁港だったかつての江尻にはそんな力はなかった。しかし、戦後、清水は天然の良港である折戸湾を抱え、多くの企業が進出して高度経済成長期には静岡を凌駕していたといっても過言ではなかった。
 折戸の湾を構成するのは、大きな砂州である三保半島である。砂でできた半島は地力がない。ろくな作物は育たなかった。向いていたのはせいぜい薩摩芋だった。しかし、天然の良港はミカンを中心とした缶詰の出荷、穀物輸入基地、石油基地、南洋材受け入れ基地、発電所、アルミ精錬、遠洋漁業の拠点、造船業を産み出してきた。
 三保の本村には映画館もあって、清水から湾に沿って、清水港湾線という鉄道が通っていた。もちろん貨物を運んだが、高校生も運んでいた。静岡を拠点としていた松前重義東海大学系の高校が二つ、東海大学第一高等学校と、東海大学工業高校があった。今ではそれは東海大学翔洋中高のグラウンドとなっている。
このグラウンドでは、1959 - 1961のあいだ、大洋ホエールズが春季キャンプを張っていた。私は1960年に東海大学第一中学校〔現:東海大学翔洋中学校)に入学したが、中学のキャンパスは静岡鉄道の柚木駅の脇にあった。
 三保には、かつて東京商船大学がキャンパスを持っていた。大きな学生寮の前にグラウンドがあり、ちゃんとしたマウンドがあって、木造だけれど、バックネットが立っていた。今はそこに東海大学海洋学部があり、東海大学翔洋小中高校になっている。

 三保は、冬になるとそれはそれはとても強い西風が吹き荒れる。もちろんその風は、三保だけに吹くわけではなくて、駿河湾一帯に、伊豆半島に吹き寄せるかの如く吹き付ける。東京から試運転の船を航海して帰ってくるときに、なかなか伊豆半島をかわすことができない。辛抱強くただただ耐えて航海してくるしかない。

 三保の外海側には、風よけの防風林が密集して、三保の松原と呼ばれる光景を形作っている。松林の内側に来ると多少風を防ぐことができて、芋畑の砂の上は日向ぼっこには持ってこいとなる。その想い出の中で聞こえてくるのは、切れることのない、松の葉の叫びだった。さぁぁぁ〜〜、さぁぁぁ〜〜といつまでも聞こえてくる。他のどこでも聴いたことがない音で、久しぶりに三保の浜に行くと、その音が子どもの頃の記憶を呼び覚ます。
 何人かで、いくら漕いでも進まないような気がする自転車に乗って、三保から駒越を超えて、西へ久能下まで遠出をした。あの石段を子どもたちは駆け上がり、駆け下ってきた。今から考えると、嘘のようだ。三保街道を走ると、正面に富士山が見えて帰ってこられるのだけれど、トラックがしょっちゅう走っていた当時は怖くて、裏道を帰ってきた。今だったらのんびり走れるだろうか。