ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

お大尽

天気は良いけれど、それはそれは冷たい北風がビュービュー吹きすぎていった

 子どもの頃、自動車を持っているうちというのは本当に数えるほどで、うちの前のまだ舗装もしていなかった坂道を上がっていく車を見ると、あれはどこの誰さんのうちの車だとわかったくらいだった。かかりつけの本田医院にはフォルクスワーゲンの黒いカブトムシがあった。後年聞くと、あの車は空冷だったから暖機運転が要らなくて、すぐさま往診に出かけられるからだという。そういえば友人のお父さんがやっぱり内科・小児科医だったが、あの人はBMWのバイクで往診にいっていたという。もちろん同じ理由からだったそうだ。
 家の前で姉が財布を落として硬貨をばらまいたといって、懐中電灯で探していたら、300mほど上に住んでいた日本郵船の重役の人の車がやってきて、運転手さんが車を止めてライトを照らしてくれて、見つけたことがあった。そんなのんびりした時代があったことがウソのようだ。
 お隣がお大尽のおたくで、確か貿易商だと聞いていたが、お屋敷とうちの敷地の間に大きな車庫があって、その上に2階建ての家が建っていた。それがお大臣の運転手さんの住まいで、その大きな車庫の中にはシボレーのインパラという後ろが羽のようにピンと広がった車が入っていた。5.7LのV8だ。今から考えると仕事に使うには少々派手すぎる車だけれど、何しろ目立つ。しかし、そのお大尽ご自身は一度も見たことがなかった。
 なにしろ近所の豆腐屋が天秤棒で商売に来た頃の話だから、目立つことこの上なかった。そのうちに豆腐屋は大きな自転車になり、最後はバイクになったけれど、あの家のシボレー・インパラはその後、どんな車になったか知らない。

 一方、わが家は全く車に縁がなかった。おふくろはもちろんのこと、オヤジも運転免許なんぞ持っていなかったし、多分あのオヤジでは免許を持ったとしても、怖くて乗れなかっただろう。それくらい不器用な人だった。ところが大学時代のオヤジのノートをみると、それはそれは丁寧なノート・テイキングがしてあって、とてもじゃないが、あの字からは想像がつかない。唯一の趣味だったゴルフにしたって、いつまで経ってもうまくならないうちに人生が終わってしまった。多分自分でも忸怩たる思いがあったんだろうけれど、仲間とつながる唯一の方法だったのではないか。囲碁や麻雀に熱中している時期もあって、40代後半には毎週のように土曜日は徹マンに打ち込んでおった。玄関脇の4畳半はそのための部屋のようだった。 だからわが家で乗る車といったらタクシーで、それは必ず都市交通(正式名称は神奈川都市交通か)だった。

 私が運転免許を取ったのは、結婚したあとで、静岡と清水の間くらいにあった静鉄狐ケ崎の自動車学校だった。だから確か、最終的に免許証を取得したのは安倍川のほとりにあった静岡の試験場だったような気がする。清水と東京の間を数えられないくらい走った。首都高に来ると怖くて運転を代わった。つれあいはずっと前から車を運転していた。それくらい東京の運転は清水とは異なっていた。いつ頃から東京も平気で運転できるようになったのか、全く覚えていない。今じゃ、年に一度レンタカーを運転するだけで、そろそろやめたほうが良いかもしれない。しかし、その年に一度の10日間くらいは混みいったところへ行かないので、まだ大丈夫だろうという気はする。