あの戦争がもう散々な状況にあって、米軍が台湾に上陸するだろうと予想して、沖縄にいた日本軍三師団のうち、一師団を台湾に転身させたら、米軍は台湾を素通り。沖縄に大挙して攻め込んできたので、沖縄は悲惨なことになったのが、1945年6月のことでしたか。その6月11日から始まったB29の本土空襲は八幡製鐵所をターゲットにして中国から飛来。高高度からの精密空爆だったのに、効果が低い。そんな高いところにまで届く高射砲を日本が持っていないと気がついて、カーティス・ルメイが低高度からの無差別絨毯爆撃を提唱した。米軍はユタ州の砂漠にアントニン・レーモンドが滞日18年間の知識を生かして日本の家屋群を作り、日本の消防団まで想定した焼夷弾投下実験までやったそうだ。(「東京大空襲の戦後史」栗原俊雄著岩波新書)
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アントニン・レーモンドは、チェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日(ウィキペディア)。数々の建築実績を日本に残している。銀座の教文館ビルも彼の手による。二分割された階段は実に奇妙ではないですか?しかし、よくぞまぁ、彼は平気で戦後に日本に帰ってきて商売をやったものだと驚かないわけではないが、今でも「レーモンド設計事務所」が存続していることには日本人の懐の深さに、敬服するものである。
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もはやその時点では誰の目にも日本の敗戦は明らか。そこまでこないと気が付かないのかね!?と今から考えると驚くばかりだけれど、今のプーチンだって気が付きたくないわけで、当然裕仁くんだって気づきたくない。そこで口にしたのが「一撃講和」ってやつで、とにかく最後にもうひと泡食わせて講和に持ち込むってわけだったんだけれど、もはやそんな時点じゃないわけね。戦争ってやつは難しいもんで、始める時は「アイツラが我が国を敵視して、こんなことをやってきた、あんな事をいってきた!こんないわれっぱなしで良いのか!暴支膺懲、撃滅英米!と煽り立てれば良いわけで、一億人民(朝鮮半島、台湾含む)は決起せよ!で良いわけ。おかげで12月8日に「戦闘状態に入れリ!」報道を聴いてスカッとしたと日記に書いている著名人多々。しかし、難しいのはやめるってときだよね。プーチンなんぞ徴兵するのももはや紙でやっていたら逃げられちゃうから、デジタル徴兵にする、これなら逃げたら逮捕だ!っていっているよ。なんだか、マイナンバーカードの知らないうちに「任意」から「強制」になっていくのが、そんな日のためのような気がしてきたじゃないか。そんなわけで、裕仁くんはその頃しきりに「一撃講和」を口にする。最後に連合軍に一撃を加えて、少しでも有利な終わり方をしたい、ということだった。しかし、その結果はどうだったか。随分たくさんの日本人が死んじゃったわけだよねぇ。戦争の終わり方は、誰も研究したことがないのだろうか。日本の防衛研究所の中にはそんな研究をしている人はいないんだろうか。ウクライナ侵犯戦争はどうしたら終わらせることができるだろうか。やっぱりプーチンを殺すしかないんだろうか。
6月23日に公布された「義勇兵役法」が15歳から60歳の男子、17歳から40歳の女子が兵士として戦闘に参加できることにした。その上、志願するなら誰でも兵として活動できる、ということにしたというのだ。これによって、米軍は日本国民がすべからく予備役兵であるという認識に立ち、日本国民が民間人ではないという認識を持つに至ったというのには、驚くというか、空いた口が塞がらない。つまり、この法律によって、日本への空襲は戦闘行為となったというわけだ。となると、広島、長崎の原爆投下はただ武器としての原爆の使用が人道的であるかどうかという点だけが問題なのであって大量殺人であったかどうかは宣戦布告下の軍隊同士の戦闘行為に過ぎない、ということになってしまうのだろうか。