ほぼ足りてまだ欲 その先

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ようやく判明

中央区立 「木の森ちゅうおう」

 銀座には横浜に暮らしていた頃から度々来た。初めての銀座の記憶は多分小学校の低学年の頃のことで、その時の記憶は7丁目あたりにあった甘味処の立田野で蜜柑(オレンジ?)のシャーベットを食べた、というものだった。何しろ当時シャーベットなんぞという洒落たものは日常的に戴くわけはなく、大変感動した。それでよく覚えていたものと思う。それにしても、横浜から銀座にわざわざシャーベットを食べに行ったわけもなく、いったいなんでそんなところへ行ったのか、まるっきり記憶がない。その立田野ももうすでに存在しない。ついこの前まであったけれど、2021年に閉店した。今年になって期間限定であちこちで臨時店を出しているというが、どこかに腰を落ち着ける気はないのだろうか。

 大森の公立中学の生徒だった頃は学校新聞の新聞委員をやっていた関係で、築地にあった印刷屋さんへ原稿を届ける使いっ走りで、大森から有楽町へ国電で行き、数寄屋橋から都電で築地へ行った。さすがに当時は寄り道をするような悪知恵が働かず、都電の窓から晴海通りをキョロキョロみていたくらいだ。

 ところが大井町の高校へ通っていた頃からは甚だ生意気に行動範囲が広がった。きっかけがなんだったかわからないけれど、八丁目のヤマハに足を運んだのがその最初だろうか。そんなことをする奴は不良といわれたエレキバンドを結成したことから、放課後足を伸ばして新橋から歩いてヤマハに行った。当時は一階に入って右側にギターがガラスケースに入って飾ってあった。フェンダーストラトキャスターが値札に23万円と書いてあったのを今でも覚えている。だからあのギターの価格が当時から比べるとほとんど変わっていないことにも驚く。為替の関係もあるだろう。もちろん今ではフェンダー・ジャパン製もある。ほとんどギターを弾けやしない私ですら覚えている。当時の日本製のギターといったらテスコ、グヤトーンがほとんどで、コロンビア、ヴィクターまでエレキを出した。もちろんOEMってやつだろう。そういえばElkがギターを出したのはいつだったんだろう。

 そこへ楽器メーカーであるヤマハがエレキを出した。その発表会というのが1966年4月に銀座ヤマハの上で開かれた。その時にギターを携えて出てきたのが、フジテレビの「サトウ 勝ち抜きエレキ合戦」で10週勝ち抜いてプロとなったザ・シャドウズだった。ベースを弾いていたのが宇野重吉の息子、寺尾聰だというのは有名だ。彼は1967年1月にはこのバンドを離れる。のちには三保敬太郎の「ホワイト・キックス」に参加していたことは覚えている。結局、裕次郎の「黒部の太陽」から役者になる。映画の公開は1968年。ルビーの指輪でブレイクしたのは1981年2月で、もはやザ・サベージの片鱗はない。随分長いこと「サトウ 勝ち抜きエレキ合戦」は放送されていたように感じるけれど、実は1965年6月から1966年9月のわずか1年3ヶ月である。

 私は1966年3月には高校を卒業しているから、まさにその頃、学校帰りに大井町から横浜とは真逆の新橋へ向かい、銀座ACBや銀巴里に入り込むようになっていた。だから当然天國の場所も知っているわけで、いっぱしの気分で銀座を歩いていたが、みゆき族になるほどの度胸も金もなかった。毎月婦人画報社から出版されるMEN'S CLUBがIVYを広めて、いわゆる遊んでいる連中の一角を当時飛ぶ鳥を落とす勢いの石津謙介率いるVANジャケットが煽っていた。その連中がみゆき通りをVANの茶色い紙袋を抱えてたむろしていた。あの雑誌には「街のIVYリーガーズ」という欄があって、そんな遊び人が掲載されていた。徐々に私もこの辺りに染まっていく。

 一年間の臥薪嘗胆期間を経て、一気に遊びに突入した私は、1967年以降、一気に丸の内線で銀座へ出かけるようになる。晴海通りに面してあった天金の天茶を何度も食べた記憶があるんだけれど、それが今のどの辺だったかの記憶がなかった。中央通りから有楽町寄りの通りにあった多分「長寿庵」といったような蕎麦屋はどこにあったのか、晴海通りにあった喫茶店が多分「オアシス」といったとうろ覚えだけれど、それが今のどこだったのかも蘇らない。


 それで中央区の図書館になんらかの手掛かりを求めていくことにしたんだが、その場所をネットで調べると中央図書館として出てこない。「木の森ちゅうおう」という施設が該当するようだが、Google Mapのストリート・ビューを見るとそこは工事現場だった。昨年の12月に完成、公開されたばかりの新しい施設である。「木の森」ってなんか、変だな。二階にある「地域資料室」に行って、レファレンスの方に、1967-8年ごろの銀座のお店がわかる資料が見たい、と要望すると、ちゃっちゃと4-5点の資料を見せてくださった。結局ここでも役立ったのは1973年版の住宅地図だった。
 判明したのは「天金」が移動した先は今まさにGiorgio Armaniが建っているところだった。なんか黒い建物だったような気がする。住宅地図には「天金食堂」と「天金」が書かれてあって、多分私が入ったのはテーブルだったから、その「天金食堂」だったのだろう。いつも食べるのは「天茶」と決めていた。値段は覚えていない。
 文祥堂の裏にあった蕎麦屋は全く私の記憶間違いで「長寿庵」ではなくて「利休庵」だった。そういえばその近く並びだったと思うけれど「泉」というような名前の喫茶店があったような気がするのだけれど、これは見つからなかった。多分また名前を間違って覚えていたんだろう。
 名前が間違っているといえば、三越の横に張り付くようにあった喫茶店も名前は「オアシス」ではなくて「オリエント」だった。オから始まるし、そういえばなんとなく似ていないこともない。これも住宅地図で見つけた。今では銀座センタービルとなっているところにあった五階建ての4階から地下まで喫茶店である。なんでそんなことまでわかったのかというと、なんとこの喫茶店は「1975-7-11 午前2時ごろ二階から出火」と消防の記録に残っていたのだ。驚くことに安藤七寶店は銀座七寶ビルをヴェルサーチに全館貸して、お店はまさにこの銀座センタービルに移した。もはやあの仕掛け時計はない。老舗がいくつも銀座の表通りから姿を消し、裏通りに移ってしまった。天國も、トラヤ帽子店も、銀座タカゲンも。
 「お爺さん、もうあぁたの時代じゃないんだよ」という声がする。

天金があったと思しき場所はその後不二越ビルとなり、今はアルマーニ
建物自体は安藤七宝ビルで、ヴェルサーチのお店になっている。
茶店オリエントがあったと思しき「銀座センタービル」
蕎麦屋の「利休庵」があったと思しき銀座三丁目三番地付近