ほぼ足りてまだ欲 その先

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明石順三 灯台社

 古い岩波新書に「兵役を拒否した日本人」という1972年刊行のものがある。著者は稲垣眞美(いながき まさみ)という人で1926年生まれで19歳で徴兵されたそうである。稲垣は1969年に阿部知二が同じく岩波新書で出した「良心的兵役拒否の思想」を知って、明石順三と灯台社をより掘り下げることにして、明石順三とともにあの時代にあって兵役に抗った人たちに取材をしたと、あとがきに書いている。みすず書房が1968年に「同志社大学人文科学研究所研究叢書 X(キリスト教社会問題研究会) 戦時下抵抗の研究 1 キリスト者自由主義者の場合」という大変に長いタイトルの本が出版されていて、その中に同志社大の篠田一人名誉教授が「灯台社の信仰と抵抗の姿勢」を書いている。
 その後鶴見俊輔は1972年8月14日から四回に分けて朝日新聞の「思想史を歩く」に「明石順三と灯台社」を書いた。これは「鶴見俊輔集 9 方法としてのアナキズム」に収められている。

 何度も繰り返しになるが、明石順三の灯台社は、米国ではWatch Towerといわれ、戦後の日本では「ものみの塔」といわれる「エホバの証人」である。あの輸血を禁じていることで知られる組織で、今でも(流石に酷暑の夏には見かけないが)あちこちの繁華街で比較的フォーマルな格好をしてパンフレットを配っている。海外にあっても、日本のエホバの証人は日本人家庭を巡って勧誘にやってくる。
 もともと1889年生まれの明石順三は1908ねんに渡米。日系の新聞に職を得、最初の夫人と結婚。その夫人の影響でものみの塔に惹かれる。ついには講演伝道者となり、1926年に日本に支部を作るために帰国。その後は日本という国がどんどん戦時体制に向かっていく時代で、明石順三らのグループも大いに弾圧を受けながら、兵役拒否を貫かんとする。では、戦後はそのまま灯台社を貫いたのかというと、全くそうではない。というのは、戦後解放された明石順三が米国のWatch Towerと連絡を取ると、戦時中には3,500人もの兵役拒否者を出しながら、戦後はすでに組織拡大に邁進し、明石順三の考えからは程遠く、明石は批判をするがその結果、米国のWatch Towerは明石を除名した。したがって、今の日本の「エホバの証人」は明石順三と彼が活動してきた灯台社とは全く繋がっていない。