ほぼ足りてまだ欲 その先

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本当は

 ここのところの自由民主党とそれを報じるマスコミによる論調を見ていると、なんだかその根底にものすごく大きな違和感をズシンと抱えたまま、ひとつひとつの事象に振り回されているような気がする。
 政治資金規正法が全くなんの規制もする気がない法律であることにがっかりするだけではなくて、お金を手にすることに対する近代国家的ルールがなにひとつ機能していないことにも驚くばかり。

 ひょっとすると、自由民主党という政党は全党をあげて、「政治ごっこ」をやっているのではないか、という気がする。いや、ひょっとするとこの国全部が近代国家「ごっこ」をやっているだけなのかもしれないという気がする。何ひとつ学んでいないし、何ひとつ近代化が進んでいないのではないか。その「近代化」というのがどういう動きを、どういう方向に行われていくことをいうのかから問わなくてはならないのではないか、という気がしないでもない。

 なんでそんなことを考えるのかといえば、自民党の殆どの国会議員は手にした金をなんの所得税も払わずに自分のものにしているわけで、彼らは一国民の義務を果たさずにいて、それでも平気でいることを考えると、必要とする市民的義務を国会議員ともあろうものがないがしろにしているわけだ。たぶん、こんな立場にいる人間には特権的特別待遇があって当たり前だろうと思っている。多分勘違いをしてしまう環境があるんだろうけれど、そんな環境を構築する根拠はなんだろうか。
 長崎3区選出のベテラン議員である82歳の谷川弥一がとうとう法に違反する金をたっぷり手にしていたことを咎められて起訴され、国家議員を辞職した。その辞職記者会見の席で、彼は記者の質問に対して、ほとんどなにも答えず、しまいには「ニコニコ!」と記者連中をバカにしたパフォーマンスまで披露した。彼は(良くいわれることだけれど)その記者連中の向こう側に多くの一般市民がいることをこれっぱかりも想像することができない。自分がどうして国会議員という役割についているのかが全くわからないまま、これまで20年、7選、衆議院議員をやってきた。彼の名前を広く全国に知らしめたのは、国会で質問に立った2016年11月30日衆議院内閣委員会で、40分間の質問時間が28分が過ぎた時点で「一応質問が終わったのですが、あまりにも時間が余っているので」といって般若心経を唱えたということがある。あまりにも国会をバカにしている、だから与党の議員の質問なんて必要ない茶番である、という声が飛び交った。じゃ、議事録にはどう掲載されているのかと思って探す。
 彼は地元を活性化するためにIRを導入だという中で、自身の生活信条を長々と演説する中で、宗教に触れ、「「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄」というんですが、その根底にあるのは、般若波羅蜜多というのは、般若は知恵なんです。蜜多というのは行くなんです。波羅が彼岸。幸せになるための道ということなんですよ。どうしたら幸せになるのといったら、無念無想で生き抜けと言うんですよ。言いわけするなと言うんですよ。」といっている。というわけで、今度の会見でも「私が悪い、すんません、私が悪い」ばかりを繰り返し、肝心なところになると、「これ以上はいいません」といって逃げた。挙げ句に「これ以上責任をとれというなら死ぬしかないじゃないですか」とまでいった。彼はこれが「言い訳をしない」という人生訓だと思っているということだろう。それとこれでは全く異なり、かれが国会議員として、自分がどんな立場にいるのか、という点に思いが至らない決定的な間違いを犯しているということである。


 谷川弥一が手頃な例として転がってきたから、これを取り上げたけれど、この国の民主主義と思えるような仕組みが実は「ごっこ」でしかなくて、形態を真似しているだけでしかないということではないのか、という疑問がある。
 明治維新ですっかりそれまでの徳川政権から、天皇による帝国的政権にひっくり返ったんだけれど、あれは全くの人まねでしかなくて、戦国時代からの仕組みのまま、外観を西洋風にしただけでしかない。それが戦争に負けて大日本帝国が崩壊して、普通選挙が実現して民主国家になったように見えるけれど、それでも士農工商の仕組みからほぼ替わっていない。
 滑稽なのは、おどろおどろしいような石造りの由緒あるような調度の国会で「審議」をしている「ごっこ」をやっているけれど、その実は「般若心経」なんである。かの皇室だって、女性の正装でロングドレスを着てしゃなりしゃなりとお出ましになるけれど、その格好で「歌会始」に参列しているわけだ。そんなにお似合いにならないドレスはどうしておやめにならないのだろう。だから、十二単でお出ましくださいと云っているわけではない。
 ここまでいわゆる「政党」が腐っているというけれど、彼らは腐っているわけではなくて、もともと国会議員「ごっこ」をしているだけなのである。本来の国会議員の役割を自覚して行動している人がいるかと言えば、自民党公明党、維新、国民民主、立憲民主のあらかたはそれに該当しない。「選挙屋」なのであって、「国会議員ごっこ」をやっているに過ぎない。

 
 彼らの「ごっこ」をそのまま各自治体の議員連中も「ごっこ」に腐心している。そんな事をいうならお前も選挙に出たらいいじゃないかという声が聞こえる。こんな自覚ができるようになったのもついこの前のことで、若い時は私もバカで、世の中の流れにズルズル流されて享楽的な日々を送ってきた。だから、気がついたのかもしれない。

 それを考えさせてくれたのは、「ごっこ」の極意を尽くしていた安倍晋三だろうか。
 有権者のホンの三割しか選挙にいかないというのが「ごっこ」の実態をものの見事に表している。つまり、戦争に負けて民主化がされたのかといえば、されちゃいないのである。

 区議会議員程度の連中がお互いを「先生」呼ばわりしているのを見ると、「ごっこ」も極まれりという気がして笑えるというよりもこっ恥ずかしい。