ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

挫折


 朝起きた時はさぁ、あそこからあそこを通って、あっちへいって、こんな写真をとって、あそこへ出て、昼用にこんな食べ物を買って、そうさなぁ、1万歩は歩いてやろうじゃねぇか、と張り切っていたんだよね。
 で、歩きだしたら、あっちへ引っかかり、こっちへ引っかかっているうちに、なんだか面倒になってね。グルっと回って帰ってきちゃったんだよ。7千歩にしかならねぇの。挙げ句にケチの習性が出て、買った弁当もこれ以上薄くは切れねぇだろうというくらいに薄べったい銀鮭の切り身が乗った398円の軽い弁当だよ。

 それなのにトイレから出ようとしてベルトを締めようとすると、いつもの穴でなくってずれちゃうんだよね。あれ!太っちゃったのかな?と思ったら、背中のホッカイロが挟まってやがった。こういうことをするから、トイレにホッカイロを落とす人が出るんだろうな。そういえば隣の区の図書館のトイレに「お気をつけください」と張り紙がしてあったよ。

日本政府は知らん顔を続ける「浮島丸事件」

 隣の区から借りだしてきた。2008年に出版された本で、著者は「浮島丸受難者を追悼する会」の現在の会長である。この時点で40年前から舞鶴で毎年8月24日の浮島丸が沈没した日に追悼集会を行ってきていると書いてある。慰霊碑が建立されたのは1978年で、昨年も民団や総連からも、そして京都の朝鮮中高級学校の生徒も参加して追悼集会が開かれたそうだ。
 なんで民団や総連が関係してくるのかというと、この船に乗っていた乗客はすべて青森から急きょ釜山に向けて出航した朝鮮から連れてこられた労働者だったから。敗戦が決定した直後、青森で労働に従事させられていた、あるいは従事していた朝鮮出身者をすぐさま帰国させてしまおうという考えを大湊警備府が実行に移した結果である。本船の乗組は出港に反対をした。なにしろ戦後の命令で海図も焼却処分してしまったという。その反対を軍法会議で厳罰に処するぞと脅して250名の乗組は船を動かした。しかし、朝鮮半島出身者が一体何人乗っていたかについては確たる数字がない。乗船者名簿がないからだ。このあとに帰国するための船はないとして多くの朝鮮半島出身労働者を脅したという証言もある。
 そして船は釜山に向かうことなく、そのまま舞鶴の港へ入り、大爆発を起こして沈没した。
 この事件に関して、日本政府は全く公式な調査をしてこなかった。ま、日本政府は戦後、様々な点に関して中国への侵略戦争、アジア太平洋戦争に関する公式な調査を終えていない。一体全体、あの戦争にいくらの金を費やしたのかも、正確に何人が死んだのかもわからない。全て、おおよその数字である。この事件も私は全く知らなかった。
 NHKは1977年にテレビ番組にして放送したそうだ。どこかで本編は見られるのだろうか。

gendai.media

NHKは1977年8月13日、浮島丸事件を追ったドキュメンタリー番組『爆沈』を放送した。その中で浮島丸の野沢忠雄機関長は、鳥海金吾艦長が主要な乗組員に話した内容を語っている。
「暴動を起こすという、朝鮮人が。いろんな待遇改善とか、いままでどうしてワシたちをこき使ったかと。そういうことを起こすから、早いとこ、もう戦争もすんだんだから朝鮮へ送り返せ、と」
「第2復員局残務処理部」の用箋にタイプ打ちされた「輸送艦浮島丸に関する資料」(1953年12月)という日本政府の文書には、次のように記されている。
終戦直後大湊地区に在った旧海軍軍属朝鮮人工員多数は連合軍の進駐を極度に恐れたためか帰鮮の熱望を訴えて不穏の兆しを示した」
だが「連合軍の進駐を極度に恐れた」のは、朝鮮人ではなく海軍の方だったのではないか。「大湊警備府」が防衛していた樺太では、15日以降もソ連軍と交戦状態だった。それは22日の「日ソ停戦協定」成立まで続いた。

ところが船の乗組の中には釜山に到着したら、日本の船は拿捕されて乗組は捕虜とされるぞという考えが飛び交った。氾濫を起こす乗組まで出たが海軍警護府は抜刀して彼らに迫り、軍法会議即決死刑を宣言するに至った。

あちこちにも書かれているけれど、8月20日付で「連合国軍総司令部GHQ)」は日本政府へ、8月24日以降の大型船舶の航行禁止を要求。それを受けて大本営海軍軍令部は21日、「大海令(大本営海軍命令)第52号」を出した。つまり、そちらの通達で
もうすでに船は出られやしない状況になっていた。
 乗組の中には船を動けないようにしてしまおうという動きさえ出てきたという。それがこの船の爆沈が機雷ではなくて、意図的な爆破ではなかったかという説を生み出している。
 いずれにしろ多くの犠牲が出てしまった。

 その後の日本政府のスタンスは米軍が敷設した機雷に触れて爆発したというもので、詳細調査は公式にはされていない。船主だった大阪商船は朝鮮戦争で高騰した鉄スクラップに流用しようと後ろ半分を引き上げて調査したが使えないと判断して前半分は放置されていた。しかし、1954年1月に前半分もスクラップを意図して引き上げられ、70人の在日朝鮮人の人たちが遺骨を拾ったという。