韓国の最高裁が1965年の日韓国交正常化に伴う請求権・経済協力協定で何もかも完全に解決したと日本政府が主張している、先の戦争による被害賠償を、「個人による請求はこの限りにあらず」としたことで、新日鐵住金に対する賠償請求を是とした。日本は飽くまでも朴正熙政権と交わした協定が生きていると主張。
この一件で思いだしたのが、三菱マテリアルが中国人による賠償請求に応えた一件だった。三菱マテリアル、当時の三菱鉱業が運営していた炭鉱で中国人を強制的に労働させたことに対して賠償をした。中国人は請求が成立したけれど、当時の朝鮮人に対してはもうやるだけやって合意したんだから、終わりだというスタンスになる。対中国はこれまでなんの協定もないのかといったら、そうではない。1972年9月、北京を訪問した田中角栄総理と周恩来首相との間でかわされた日中共同声明第5項には「中華人民共和国政府は、両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」と合意していた。にもかかわらず三菱マテリアルは、賠償に応じた。この時、三菱マテリアルはとんでもないことをしたと財界は反応した。それだけ各社とも、臑に傷を持っているからだ。
戦争中、日本国内の多くの若者は戦争に駆り出され、しまいには若者だけでは足りなくなって、壮年者も二度目の徴兵を受けて送り出された。その結果国内に労働者が払底し、女子どもまで勤労奉仕という名前で労働に駆り出すも、なお労働力は不足した。とうとう植民地である朝鮮半島にも徴用令を行使して労働現場に駆り出した。その中には国内外にある連合国捕虜兵を働かせる現場もあった。朝鮮半島も日本だといっていたんじゃなかったのかなぁと思った記憶がある。
私がかつて働いたことがある工場は戦中に作られ、主力労働者は近くにあった刑務所の囚人と、朝鮮半島から連れてきた労働者だった。だから、戦後の工場にいた守衛のほとんどは元刑務官だった。朝鮮半島に人狩りに行った担当者が朝鮮人労働者を連れかえる行程では一人、二人と逃げられて、工場にたどり着いたときには随分目減りしていたという言葉を聞いたこともある。
ジュネーブ協定で禁止されていた戦争捕虜の強制労働は、日本はジュネーブ協定を批准していなかったからこれを無視し、彼らに強制労働を課し、その見張りには多くの朝鮮半島から徴用された朝鮮人がついていた。戦後のB-C級戦犯で有罪となった元日本兵の中にはこうした朝鮮人が少なくない。
しかし、日本政府は全てあの日韓国交正常化で終わったとしてきた。ここを明らかにするしかなくなってしまうと、これから先はこじれる。なんだかんだといっても戦中の日本には多くの闇が無理矢理封じ込められている。