ほぼ足りてまだ欲 その先

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”慰安婦”像

 「高さ約2mで、フィリピン人彫刻家が作製。目隠しをして頭にベールをかぶり、フィリピンの伝統的なドレス姿をした慰安婦を象徴するフィリピン人女性の像が、首都マニラに設置された」と産経新聞が報じている。産経のことだから、「在フィリピン日本大使館はフィリピン政府へ抗議した」と書いている。
 サン・フランシスコに設置された慰安婦増は朝鮮半島と中国とフィリピン出身の若い女性3人が手をつなぎ円を描く様子だという。
 目隠しをしている、という点が慰安婦として何を意味するのかといぶかしかったのだけれど、この像に設置されているタガログ語の銘板には「1942年から1945年の日本の占領下で虐待の被害にあったすべてのフィリピン人女性の記憶」と書かれているのだそうだ。
 日本軍は1942年から1945年に戦争が終結するまで、それまでの宗主国であった米国を蹴散らかしてフィリピンを占領した。3月にフィリピンを脱出してブリスベンに赴いたマッカーサーが「I shall return」といったことで有名だ。それから日本はマニラを中心に占領した。もちろんご多分に漏れず、ここでも旧日本軍は野蛮な行為を働いた。そして、最後はマニラは本当に帰ってきた米軍と市街戦になった。そして多くのフィリピン人が巻き込まれて犠牲となって死んだ。
 1948年に大統領になったエルピディオ・キリノはその市街戦で妻と4人の子ども達を日本軍によって惨殺された過去を持つ。1953年になって彼はフィリピンで刑に服していたB・C級戦犯に恩赦を与え、彼らは日本へ帰国した。死刑囚は終身刑減刑されて、巣鴨での服役となる。
 私が日本とフィリピンの関係に意識が向いたのは、1970年代のことで、当時フィリピンの大統領は悪名高きフェルディナンド・マルコスであり、妻はマラカニアン宮殿に3,000足の靴を集めたイメルダだった。当時日本政府はフィリピンに戦時賠償を1980億円支払った。これを原資に様々なプロジェクトがフィリピンに計画され、その実現にはマルコスへの袖の下が不可欠だった。つまり、日本企業は賠償金を目当てにマニラ詣でを繰り返した。
 そこから日本人の男達が買春に繰り出していった。多くの父親が日本人である子ども達がフィリピン各地に残された。バブルの頃、安価な労働力を求めて、日本政府が日本人の血を受け継ぐ外国人を優先的に労働力として受け入れた姑息な手段で、日本にやってきたもの達もいたし、それを騙って日系の血を継いでいないのになりすましたケースも報告されている。
 この期に及んで日本政府も含めて日本人の多くは日本人が何をしたのかを知らずに、また威張っている。