ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

深作欣二という映画監督が72歳で死んだ。死因は癌だという。いわゆる昭和ヒトケタの一人。僕はこの人の映画を一本も見たことがない。最も良く知られているのは東映の「仁義なき戦い」という広島を舞台にしたやくざ映画である。追いつめられた人間の極限における居直り、というものがテーマだったんだというのがテレビの解説だった。そのテーマを表現するのには、やくざの出入りを取り上げることが彼には必要だったということなのか。

 この監督のことを一番最近知ったのは、ビートタケシが出演していた「バトル・ロワイヤル」という映画であった。この映画はいわゆるマルチメディア効果を狙って原作も同時期に、学校のお休み時期にタイミングを合わせて公開されたものであった。テレビでもそのスポット広告は流されていた。その広告を見ただけで怖気が走った。ある民主党の代議士が、この暴力シーンを満載した映画を年齢限定公開にするべきだと論陣を張った。総じてマス・メディアはこの代議士の主張を「表現の自由」の観点から否定的に捉えた。わたしはこの広告を見ただけで商業映画にやっぱり良心なんてものがあるわけはないと再認識した。やくざ映画と同じ監督同じ映画会社だ。その根底に身を挺して取り組む表現の自由が根ざしているとは全く思えないと言っていい。あの代議士は批判するからには全てを見るといって映画館に足を運んでいた。わたしは見るに値しないと思った。わざわざ否定するべき物に金を払うという愚挙に出る気はなかった。

この映画にも、監督は極限における人間を描くという観点では先の「仁義なき戦い」と一緒だとコメントしていた。しかし、なぜ、それを描くために、現代の若者が学校の中で、ナイフや刃物を振りかざし、相手を殺すという場面を溢れさせなくてはならないのか。それを嫌なもの、恐ろしいもの、人間性を失うとどんなことが起こるのかと言うことを教えるためであれば、どんな乱暴なものでも人前にさらけ出さなくてはならないのか。人間はどうしても、乱雑なものを目の前に突きつけられると、そんな雰囲気に暮らし始めるし、見るに耐えないものを突きつけられ続けると、何もかも投げやりになる。
荒れた環境に居続けると、どうしても自分の心をその荒れた環境にいちいち驚かなくなるように学習し、自分をそれに慣れさせるようになる。幼児期に親から暴力を振るわれた子は、成長すると自分の子に対して無条件の愛を無条件で無意識で与える力を発揮できなかったりする。
そんなことを考えると、いくら究極にはこんな恐ろしいことをなくしたいのだ、と主張してみても、その手法では、そう伝わらない。結果としてそうでなかったときに、彼はその責任をどうやってとることができるというのだろうか。
やりっ放しにして彼は逝ってしまったのではないか。

人は死ぬと美化される。
生前にどんなことをしようと、死者に鞭を打つといって、その生涯における汚点を覆い隠して良いところだけを取り上げて偲ぶ。もっともだからこそやっていかれるんだろうなぁ。死んだ後もいつまでもあいつは・・といわれるんだろうと思っていたらやっていけないところもある。深作監督の最後もその「バトル・ロワイヤル-2」の制作中にモルヒネをうち続ける監督の姿をテレビに公開し、ついに力つきたと報じる。仁義なき戦いで主演した3歳年下の菅原文太という役者がコメントを語る。最後まで現場にいることのできた映画監督たる彼は幸せだったと思うよ、と。