ほぼ足りてまだ欲 その先

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「上を向いて歩こう」再考

 NHK総合テレビジョンはちょうどこの時から2004年放映の番組、「坂本九上を向いて歩こう 世界的大ヒット誕生秘話」なるものを再放映していた。日本航空御巣鷹山事故で死んだ坂本九の娘が「上を向いて歩こう」の世界的大ヒットの足跡をたどるという内容。私のような全く業界に関係のない、単なるいち視聴者が知るわけもない当時の話。
 もちろん「上を向いて歩こう」は作曲中村八大、作詞永六輔、大ヒットのきっかけはNHKの「夢で会いましょう」だと私は理解。この曲がどうして作られたのかは初めて知った。当時、坂本九のマネジメントを担当していたのは曲直瀬さんという女性。彼女は現在ロス・エンジェルスに暮らしているそうだけれども、山下敬二郎水原弘をマネジメントしたという。中村八大がサンケイホールでリサイタルをやると聴き、そこで、オリジナルの曲を坂本九に歌わせてくれと頼み込み、八大はメロディーを造って、ちょっと寂しげな詩を永六輔に依頼したんだという。しかし、永六輔はなんという歌い方をするのかと坂本九に怒ったという。そう、彼の「よう、うぉ、うぉ、うぉ」はとても違和感がある。今だったら桑田佳祐ほどでもない。
 わたしは自分が横浜の生まれだから川崎生まれの坂本九に親近感を持っても良かったのに、なんでかしらないが、「隣の九チャン」の売られ方にとても違和感を持って見ていた。彼は1941年生まれだから私は彼より6歳年下。彼が成人式にテレビジョンで「今年の成人」の一人として取り上げられていたのをはっきりと覚えているが、この時わたしは15歳。なんだか、わざとらしい笑い方をする、ニキビ面の、妙に茶の間のまんまのような私生活写真を露出する売り方がいやだったのかもしれないと今でも思う。
 しかし、この番組を見ているうちに、その中で流れる様々な編曲での、様々な演奏でのSUKIYAKI上を向いて歩こう)を聞いているうちに、どんどんその懐かしさがよみがえってくる。この曲が大ヒットした1963年の8月に彼がThe Steve Allen Showに出演した時のビデオ・テープが今でも驚くほどの鮮明さで残されている。東京オリンピックの前年にロス・エンジェルスを訪問し、100万枚ヒット直前での大歓迎を経験している。ビートルズが全米で爆発する直前の話だ。この番組はまさに米国の典型的な夜のトークショーそのもので、後のジョニー・カースンにも、レター・マン・ショーにも繋がっているわけで、今だったらとても考えられない扱いであることがよくわかる。それにしてもこの番組のビデオの鮮明さには本当に驚かされる。この頃の番組として残っている、例えば「夢で会いましょう」のビデオと比較すると雲泥の差である。一体、どこのメーカーの機械だったんだろう。
 この曲を最初に米国で流したDJが担当していたのはワシントン州、シアトルから約400km内陸に入るパスコの典型的な田舎のラジオ局での番組だという。英国のトランペット奏者(ケニー・ボール:MIDNIGHT IN MOSCOWでヒット。ディキシーランド・ジャズ奏者)が既に出していたSUKIYAKIは知られていたが、日本のペンパルから送られた坂本九のオリジナル版を「とても似ている」として送ってきた聴取者がいて、それをかけたのが全米で最初だとしている。このDJは後にキャピタル・レコードから、シルバー・ディスクを送られている。
 このDJの話が興味深かった。彼の説明はこの曲は朝鮮戦争で多くの米国兵士が日本に滞在しており、彼らにとってはとても懐かしい、ノスタルジーを感じさせる曲となっていたというものである。朝鮮戦争の休戦協定が成立したのが1953年の7月だから、それから10年も経っていない。やっぱり多くの人が経験した日本とその文化、そして何よりもケニー・ボールが録音時にペトゥラ・クラーク(“ダウンタウン”の歌手)と話しながら名付けたタイトルの「スキヤキ」は彼らになにかしらをもたらしたということであろう。
 ここまでくるとなんとなく坂本九があの飛行機事故で死んでしまったことがちょっと惜しかったかもしれないと思うようになってきた。なによりもこの番組の案内役になっていた坂本九のお嬢ちゃんがお母さんそっくりではなくて、お父さんにそっくりだったことがなんだかこのおっさんに油断をさせたかもしれない。
 坂本九がロス・エンジェルスを訪問した時に空港に迎えに出ていた当時の「ミス・ニッケイ」であった女性が、坂本九の娘と話すうちに当時を思いだして涙ぐむ。「お父さんに似ている」と語っていた。
 あの曲のイントロはマリンバである。そして八・六コンピのなぜか知らないけれど、ほのぼのメロディーは聴く人を安心させる。夜中に思わず書き留めたくなった。