ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

昔の映画館

 もう段々想い出せなくなってきてしまっているので、今のうちに子どもの頃行った映画館のことを書いておかなくてはならないと思う。
 なんといっても最も多く出かけたのは東横線反町にあった東映の常設館「反町東映」である。ひどい時は毎週日曜日におやじといった。煙草の煙むんむんであった。片岡知恵蔵のセリフは子ども心に分かりにくかった。同じ理由で大友柳太郎も聞きにくかったけれど、市川歌右衛門のようにエリート臭がしなくて(それはただ単に旗本退屈男のあのきらびやかな衣装の故であったかも知れないが)ざっくばらんな気がして(わかりゃしないのに)好きだった。東映の俳優が日活もののように現代ギャングものなんかやると嫌いだった。
 (追記 090214:市川歌右衛門プロダクションを昭和2年に設立したのはあの「笹川良一」である。)
 反町にはもう一軒、ロマン座という映画館があった。こっちは三本立てだったような気がするのだけれど、それほど入った記憶がない。後年ここはピンク館になったから日活の系列だったのかも知れない。死んだおやじが定年退職をしていい歳になってからこの映画館から出てきたところを見たといって長女が憤慨していたのを想い出す。彼女ももうとっくにいい歳だったのに、なんてガキのようなことをいうんだと不思議だった。
 隣の東白楽には六角橋商店街に紅座(べにざ)というのがあった。これは多分松竹をかけていたんだと思う。ここには伴淳とアチャコの「二等兵物語」を見にいった。上田吉次郎の物まねが得意になったし、子どものくせに柱に捕まって「み〜ん、み〜ん」と鳴く「蝉」なんていうものを知っていた。古参兵に新兵がいじめられることは常識として描き続けられていたことを知っている。
 もう一つ隣の白楽には駅前に白鳥座という至極上品な名前をした映画館があり、こっちはその名の通り洋画をやっていたような気がする。ディズニーの漫画ではない映画、「砂漠は生きている」を見たのはここだったような記憶である。ここは後年銀行になっていた。
 私の最初の小学校は反町駅の直ぐ傍だったが、学校のプログラムとして映画を見る時は、学校からちょっと坂を下ったところにあった福祉会館で見た。確か学芸会なんかもここでやったようである。お笑い三人組の公開録音を見たのはここではなくて、東神奈川駅に近い神奈川スケート場だけれども、真夏だった記憶がある。
 その後静岡の清水に引っ越したけれども、ここも昭和33年頃には随分たくさんの映画館があったという記憶であるが、ほとんど想い出すことができない。確実に想い出せるのは万世橋の駅前だったかにあった「オリオン座」である。ここが最後まで残った映画館だったはずで、洋画専門館だった。清水は後年サラリーマンになってからも暮らしたことがあり、この映画館で最後に見たのは「タワリング・インフェルノ」ではないかと思う。その前年か二年ほど前かにここでダスティン・ホフマンの「Little Big Man」を観た記憶がある。
 磯谷臣司さんという方が書いておられる「きょうの清水」の「清水の映画史(1)」ですっかり忘れていた「オリオン座」以外の映画館を教えて頂いた。
 清水駅から三保街道に出て直ぐの左側にあったのが「ダイヤモンド劇場」で、ここで多分、私にとって三回目の小林桂樹主演「裸の大将」を観た。芦屋雁の助が定番ものにする以前に大ヒットしたのがこの小林桂樹のものである。私は大好きで、三回も観た。そして確か清水東高で夏休みに開催された山下清画伯の個展を見にいった。映画の中そのままにごく丁寧に完成された花火のちぎり絵や、瓦を一枚一枚数えて書かれた大店の絵などは後に私に影響を与えるのであるが、残念なことに私自身に絵の才能がなくて開花せずに終わるのであるが、中学の美術の先生が私の好みの技法を喜んでくれた記憶がある。
 江尻の名画座、清水橋の栄寿座というのはどうも記憶にないのだけれど、栄寿座は磯谷さんの書かれたものを観るとあの跨線橋のたもとにあったというのだからひょっとすると入ったことはないけれど見たことはあったのかも知れない。その下に劇団「ポート清水」があってあのコマソンの女王、楠トシエがここから育ったという話には驚いた。あの人は清水出身だったのかぁ。彼女は今年78歳。そのまま引っ越していなければ市ヶ谷に暮らしておられるはず。こちらでは「三菱銀行のOLを経て、昭和24年、新宿ムーラン・ルージュに入団。28年にNHKの専属タレント第1号」と書いてあるが昭和28年なら25歳になっていたはずである。
 「新清水には三軒並んだセントラル、東宝、サクラがあった」と書いてあるが、三軒並んでいたのは覚えていて、多分最後まで残っていたのはサクラ劇場だったのだと思う。他に覚えているのは港橋の羽衣劇場くらいで、「みなと劇場」は全く記憶にない。
 三保にあった三保劇場は小学校の映画のプログラムをここで見たので覚えている。しかも、一度は見るはずのフィルムがとうとう間に合わなくて(だったら延期すればいいのにと思うのだけれども)その時掛かっていた「月光仮面」と(多分)「怪人二十面相」を見ることになった。学校のプログラムは文部省推薦ものをきちんとしてみるというのがその当時の定番だったのに、思いもかけずそんなものを見ることになって子どもは有頂天。♪どぉこぉのだれかはぁしぃらなぁいけれぇどぉ、をみんなで思いっきり唄った。透明人間が出てくるものだった記憶がある。ベンハーを観たのは中学一年生の時で、これは静岡まで観にいった。シネマスコープの画面が清水にはなかったのかも知れない。
 そうそう、中学三年がもう終わろうとする頃、大森にあった映画館に学年全員で「風と共に去りぬ」を観にいった。あれが1939年の映画だなんて未だにとても信じられないが、その時なんかそんなことすら知らなかった。
 高校時代はほとんど映画を見た記憶がない。いったのは横浜駅の西口だったのではないかという気がするけれど、相鉄文化映画とでもいうようなものがあった記憶がうっすらとある。日曜日は菊名の塾に通っていたから出かけるはずもない。例外はビートルズの「A Hard Days Night」で、封切りの時は東劇で一気に三回連続で一日のうちに観た。4回目がどこか覚えていないのだけれども、5回目は川崎のミス・タウンだった。画面にあわせて唄ったら前に座っていたおやじに「うるせぇっ!」と一喝されて黙った。そりゃそうだ、当時の映画はそんなことしないもんだ。しかし、ロードショーはビートルズ・ファンで一杯だったから平気でやっていた。そうやってガキがでっかいツラをするような文化が始まっていたんだと思うな。
 この当時に森繁久弥加藤大介、三木のり平フランキー堺久慈あさみ淡路恵子池内淳子小林桂樹新珠三千代藤木悠なんてところが常連の三等重役だとか、社長漫遊記だとかのシリーズを観ているのだけれど、あれは一体全体どこで観たのだろうか。子ども心にそんな映画の物まねをした記憶がある。時代からいうと高校生の頃かもしれないが、だとしたらいったいこんな映画を誰と観にいったんだろう。結構気に入っていたんだけれど。
 大学に入ってからは渋谷、新宿、池袋を通っていたので、結構見た。渋谷の全線座のお嬢ちゃんを知っているという友人がいた記憶があり、ここの招待券を貰った記憶がある。渋谷では東急文化会館には何回も入った。
 池袋には東武百貨店(かつては東横百貨店ではなかったか・・?)の上に渋谷のと同じような名画座があった。授業をさぼってはよく観にいった。昔の駅の切符の自動販売機のように、お金を入れて取っ手を下にガチャンと押すとまさに電車の切符のような硬い紙の切符が出てくるのが面白くて覚えている。もちろん文芸座には夜中のヤクザ映画6本立てなんてものを観にいった。立ち回りの時に「健さん、後ろが危ない!」と観客が叫んじゃうのもあり。朝7時頃に意気揚々と帰るのだった。ロサにあった映画館にも入った記憶がある。
 その他はやっぱり銀座・日比谷界隈だった。「イージーライダー」も「いちご白書」もスバル座だった。「卒業」はいったいどこで観たのだろうか、記憶にないが、多分日比谷である。日劇は実演と映画という大きな看板がいつも出ていたが、あそこに入った記憶は一度もない。ウェスタン・カーニバルに出ていた先輩に試験の予定をお届けしただけである。会社員になってから東宝の友人に日劇ミュージックに連れていって貰った一回だけで、下の劇場に入ってはいないなぁ。
 大学を卒業してまた清水に行って、東京に戻ってきたのが1976年の夏だけれど、それからはがんがん観た。今はなき並木座、佳作座にもいったけれど、当時から邦画にあまり興味がなかったので、並木座にはいくチャンスは少なかった。ギンレイホール早稲田松竹も何度もいった。今はもうない上野の映画館も何度かはいったけれど、浅草には二回くらいしか入ったことがない。そしてそんな小屋はもうとっくにない。