ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

Cary Lewincamp

 タスマニアのソロ・ギタリストである。今年は日豪交流年ということで各地でイベントがある。青梅線の昭島の駅から歩いた「フォレストイン昭和館」というホテルのチャペル、結婚式を挙げるためのチャペルで全く宗教色のない教会である(甚だ矛盾を抱えているけれど)が、そこで昨日、今日、明日と彼の演奏がある。一週間前に「sold outです」と断られたのであるが、ある方のご尽力を戴いて、無事に切符入手。行ってみたらなんと100名分程度の椅子の数なのに、10席ほどの空席がある。来なかった方がおられるということになる。後ろの方で、「何人もの人の依頼を断ったというのになぁ」と嘆いている方の声が聞こえる。こんな「No Show」は許せない。なんだかどこかの企業がバブル時代にオークションで落とした絵の話を思った。
 昨日と明日は共演がディジュリドゥであるが、今日だけは違っている。読響のチーフパーカッショニスト、石内聡明氏と他の4名のパーカショニストによる演奏である。まず石内氏がバッハの曲をビブラフォンで独奏する。私の耳がもう危ういのか、ビブラフォンのビブラートがひずんで聞こえる。このチャペルがビブラフォンに合わないのか。それとももう私の耳が役に立たないのか。
 その後に米国人の作曲家John Cageの「Living Room」という曲を4名で演奏する。John Cageには「4'33"」という曲がある。どんな楽器でも、編成でも良いが、その間なにも音を出さないという曲。それでも楽譜を売っているというから面白い。この「Living Room」という曲は、4曲構成になっていて、最初は下手から新聞、机、電話帳、床を叩く演奏者がいて、そのクヮルテットの打楽器曲。これは大変に面白い。一度どこかでやってみたい。
 次は各種のクラベスを5人の奏者が持ち、ちゃんと譜面を見ながら4つで打つ人を基本に次々に加わり、引き、加わり、引きと繰り返し、最後にはどうやら一番上手の人を全員が見ていて、ぱたっと止まるというエンディング。米国の1932年生まれの作曲家、Steve Reichによる1973年の作品、「木片の音楽」というタイトルだという。なんだか基本の奏者の部分だけ聞くと、ほぼ天理教である。そういえば私の周りには素人のドラム奏者(基礎的な訓練なぞ受けちゃいない)が結構居るから今度宴会なぞで、試みることにしよう。この演奏が終わると満場の拍手であった。
 さて、ケアリー・ルインキャンプである。これまででている三枚のCDの中から二部にわけて10曲を演奏した。相変わらずの素晴らしい演奏。CDに入っていないものでは、Spanish Dreams Medleyと多分次のCDに入ると思われる「荒城の月」の二曲であった。今日の聴衆の大半はどうやら地元の青年会議所といった所が主流のようで、全くのオリジナルであるケアリー・ルインキャンプの曲は知らないものばかりで乗れないような雰囲気がどうやら流れているようだ。となりのおばさんの話を聞いていると「知っている曲じゃないからねえ」という。
 まして、ケアリー・ルインキャンプの七弦ギターの奏法は、オーケストラに例えると主旋律をそれぞれのパートが二小節ずつ次々に弾いていくようなものだから(多分例えは巧くないかも知れないが)、メロディーを捜してしまうのではないか、という気もする。
 私のように、家で作業をしながら後ろに流している、というような人間にとってはどんどん曲を追いかけることができるのだけれども、聞いたことのない人には分からないのかも知れない。12曲の演奏が終わってアンコールに応えて彼が弾く時に、これはもう何もいわなくても皆さんお判りだと思う、サプライズです、と前置きをした。流れてきたのは♪うさぎぃーおぉ〜いしぃ〜「ふるさと」である。思わず落涙しかかった。彼のギターで弾かれると、もうたまらない。思わず頭をよぎった一言は、「あぁ、うちの二人の子どもたちにもっともっと優しくしてやれば良かったなぁ〜」ということだった。そんな気にさせる彼の音楽はもうこうなると宗教音楽家も知れないのだ。そういえば彼の父親はかつて教会でオルガニストだったというし、彼の曲の中には「Hymn」という曲すらあるのだ。
 帰りの電車に乗ると車輌の中はお酒の匂いで満ちていた。優先席で三人の男女がプラスティックコップで酒を酌み交わしていた。やれやれ。