ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

還暦、そして

 昨年還暦を迎えていた二人の先輩が今年になって還暦パーティーを開いた。若いメンバーと共に何年もバンドを組んできたのだけれど、最近はあまり活動していなかった。二人は赤いベストを着用におよび楽しそうだった。私たちはまた酔っぱらって大いに騒ぎ楽しんだ。集合13時半、解散22時。帰るやいなやどっと爆睡。夜中に目を覚ます。
 最近とみに簡単なことを思い出すことができなくなっている。本当にとても簡単なことだ。ちょっと前まで結構煩雑に会っていたのに、この1-2年会っていない人の名前や、ついこの前まで読んでいた本の題名やら、テレビで見たことのあるパーソナリティーの名前なんかが出てこない。「そんなのお前だけじゃねぇよ」と簡単に誰かに右から左に片づけられちゃう。実を云うとパソコンの前に座っている時はそんなもの簡単に2-3度検索かければ解決しちゃうから問題はない。だから余計周りには気付かれない。しかし、本人は痛いほど分かっちゃうのである。一番まずいのはかつて良く話をした相手の名前が、その本人の前で出てこない時である。どこかでタレントが言うには、そんな時には面と向かって「え〜っと、名前なんて云ったっけ?」と聞いちゃうのだそうだ。向こうがびっくりした顔をして「え〜っ!?佐藤ですよ、さとぉ〜っ!」と言ったら即座に「そんなのは知ってるよ、俺がいっているのは下の名前、下の!」というんだそうだ。なかなか巧いなぁとは思うけれど、ちょっと勇気がなくてそれは試したことがない。
 そんな程度のことはどうにでもなりそうな気はするが、何年か前に死んだうちのおふくろのように最後は自分の子どもの顔も判別がつかなくなり、誰だか分からなくなることも充分にあり得るわけで、そこへ行く一歩目を踏み出したような気がするのである。
 記憶が定かでなくなってしまうくらいは、本人はきっと大してこまりゃしないんだろうなとはうすうす思う。“おかしいなぁ、こいつは一体なんでこんなに自分に親しそうな顔して話しかけるんだろうねぇ、まぁいいんだけれども”と思う程度だろう。しかし、それを四六時中相手にぶつけていたら自分がどうでも良いけれど、あいてはどんどん神経をすり減らす結果となっていくだろう。その時、私はきっとなんの自覚も持ち得ないのである。そんな私を一体全体誰が世話してくれるというのだろうか。その時、もうこの国にはあふれかえるほどの同じような自覚のできないままに他人様に手間暇をおかけする状況を呈している爺さん、ばあさんが(もちろん女性の方が長生きだから多いだろうけれど)私も含めて、それはそれはたくさんいることになる(あ、自分も長生きする前提で語っているなぁ)。
 今の厚生労働省の動きを見ているとほとんどそんな事態がやってくることから目をそらしているように感じる。夜の夜中までなんの繋がりもない高齢者の(オブラートにつつんで表現される)援助、支援という作業に没頭する若い人たちが本当にこの仕事に邁進してもらえるだけの報酬が得られるようなシステムを作ろうとしているだろうか。
 この仕事の区切りは何かというとその対象となる利用者(つまり被世話人)の命が消えることである。あるいはより事態が深刻となり、他の施設に移っていく時である。もう世話がいらなくなる、と言うことである。何かをこつこつと作業し、組み合わせ、ためつすがめつし、「やぁれ、やれ、ようやくできたぞ、どうだぁ、この艶は!」とできあがったものを一服煙草を吸いながら見やるという完成感、達成感を堪能できる様な職種とはちょっと違う。あぁ、やっていて良かったなぁというのはもちろんあるだろう。
 日頃「あなたはだぁれ?」と云っていた母が、突然はっきりして「私の同級生はみんな戦争に行ってしまったから、本当に少なくなっちゃったのよ」と言いだし、戦争末期のある日に上下を海軍の白い制服につつんで(だから夏だったわけだろう)、同級生が訪ねてきたことがあったと語る時、ほんの瞬間の出来事ではあったのだけれども、あぁ、おふくろも長生きできて良かったなぁと思った。多分、そんな時、あるいは利用者の人がにっこりと微笑んだりした時に、あぁ、良かったなぁと本当に瞬間ではあるけれど、思えたりするだろう。
 だけれども、究極的にはものを造る仕事と比べると、ひとりひとりの人間のその重さを感じつつ、時間に追われた仕事をこなす辛さが常につきまとう。
 それなのに、今のシステムであったら身体的負担も、経済的負担も一向に解決される気配がない。それで人手がないから外国の人にやって貰おうと一足飛びの解決(になるかどうかは誰が責任を持ってくれるというのだろうか)にその存亡を託そうとする。それだったら低賃金のままで良いだろうという判断だろうか。それは労働の搾取以外のなにものでもないだろう。はっきりいってしまえば姥捨て構造だろう。現場は変わらないけれど、登場人物が変わるわけだ。
 そんなシステムを考える人たちは霞ヶ関を住処にする人たちが原動力で、それには功成り名を遂げ、科研費をがっぽりと手に入れた学識経験者(これも結構変な呼び名だ)が「なんたら審議会」なんて辻褄合わせの会議でお墨付きを与え、真剣に聞いてもいない、出席者もまばらな衆議院だか参議院だかの「何タラ委員会」で審議したことにして、バタバタと可決。なにしろこのおっさんたちやおばさんたちはがっぽり懐にため込んでいるんだから老後になんの心配も要らない。「やってみなくちゃ分からないじゃないか、ようやくこうしたシステムができたことに意味がある」なんちゃってどうせ自分はそんなシステムなんかいりゃしない。何千万円の金を積んで良い施設に入る、あるいは何人もの介護者を雇うんだろう。
 今の特養に一体何人の高齢者が入れてくれといって待っているというのだろうか。2000年に本当に介護保険制度が動き出してからもう7年目にはいる。それでも未だにウェイティング・リストはなくならない。これはきっとなくならないだろう。なくなるようなシステムを考えていないもの。ヘルパーを資格として介護福祉士資格を取らせようなんてどうして考えられるんだろうか。今稼働しているヘルパーは激減するだろう。ベテランさんがきっとやめてしまう。
 悲しいことに老老介護の果ての事件や親を介護してきた子による事件、疲れ果てた介護者による事件、町にいる独居老人に対する事件なんてものが目につく。私がその年齢に近づきつつあるから目にとまるようになったのだろうか。それとも本当に絶対数が増えているのだろうか。