ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

社団法人「公共広告機構」(英文名JAPAN ADVERTISING COUNCIL。略称「AC」)

琴欧州「一人ひとりができる環境対策」制作電通、「逆授業参観」制作三晃社(名古屋)、「35周年キャンペーン “人の心にタネをまく”」制作大広大阪本社、「地球からの預かりもの」制作電通北海道、「続・江戸しぐさ」制作アサツー ディ・ケイなんていうマナーものやら環境ものやらの短いメッセージが民放を見ていると目につく。「公共広告機構です!」なんて云うんだが、あれは一体なんなんだろうかとずっと思っていた。なんだかまるでお上がやっていそうなキャンペーンである。総理府提供なんて書いてありそうな。しかし、お上がやっているんだったらそのままNHKでも流せば良いんじゃないのかと思ったけれど、あちらでは一切あの系統のものは見ない。一体なんなんだろうと調べたらほぼWikipedia頼みであるとはいえ、概ね下のようなことが判明したのである。

設立後の幹部

 1971年7月7日に設立総会(クラブ関西)。発起人56名。任意団体「関西公共広告機構」として発足。関西財界が主導して起こした集まりである。東京本部が発足したのは1977年である。
芦原義重初代会長:19010304-20030712関西電力元会長・社長。相談役に退いて後までも社内に影響力を駆使。1987年2月の関電取締会で芦原と内藤の解任動議で解任される。ワンマンの典型。
佐治敬三初代理事長:19191101- 19991103 サントリー創業者の鳥井信治郎の次男、佐治は母方姓。「東北熊襲発言」で馬脚を現してしまった元ワンマン経営者。尤も非上場なんだからワンマンで何が悪い、ということにもなるか。バレーボールチームを持とうとして当時全日本の花形であった選手を他社から強引に引っ張り、その企業のトップから「死ぬまで決してサントリーのものは買わない」と言わしめた。開高健柳原良平を育てたという点のみは評価しても良いだろう。
永井仭九郎初代専務理事
土光敏夫:1976年名誉会長に就任。18960915-19880804 岡山出身。1920年東京石川島造船所入社。1936年石川島造船と芝浦製作所が共同設立した石川島芝浦タービンに出向。1950年経営危機にあった石川島重工業社長就任。1960年播磨造船所と合併し、石川島播磨重工業を設立。1965年やはり経営難に陥っていた東京芝浦電気(現在の東芝)の再建を依頼され社長就任。「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く。」1974年植村甲午郎の後を受けて第4代の経団連会長就任。謹厳実直な人柄、行動力、そして質素な生活。尤も「めざしと麦飯の食事」はヤラセだと本人が云っていたという。ルックスと相まって非常に信憑性のある話として伝わっている。うちの死んだオヤジは自分が岡山出身であることもあったけれど、しょっちゅう「うちも一汁一菜でよい」と云っていたが、寒ブリの照り焼きや煮付けが大好きだったのを私は引き継いでしまった。それにしても土光の母親が1942年に設立したという横浜・獅子ヶ谷の橘学苑中高等学校は全く知らなかったなぁ。
近藤朔専務理事:1982年に就任。元電通制作部長 1991年に逝去され、「TCC広告年鑑1991」に土屋耕一が追悼文を寄せているそうだ。
五島昇:1985年に会長に就任。19160821 – 19890320 云わずと知れた「強盗慶太」とも悪口を叩かれ、西武の堤康二郎と常に対比して語られた五島慶太の長男。慶太の死後それまで拡大してきた東急グループを再編し、改革。最盛期にはグループ会社400社、従業員8万人。1984日商会頭。
近藤安之:1986年常務理事に就任 ミッチーブームの頃TBSでCM責任者であるという文章を、日本テレビの初代CM室長椎橋勇がこちらに書いている。「1960年1月28日、《会員相互の研究を通じてラジオ・テレビCMの改善向上に資する》目的のもとに、CM合同研究会は、略称『ACC』(正式名称:全日本CM協議会)として正式に発足した。1961年10月17日、CMの歴史に永久に刻まれるべき『第一回ACC・CMフェスティバル』が日比谷の第一生命ホールで開催」という記載がある。
石川六郎:1988年会長就任。19251105-20051214 大手ゼネコンの一角鹿島建設といえば石川。運輸省国鉄、鹿島守之助の娘婿。1955年鹿島入社。原子力分野に邁進。1963年東大教授武藤清を副社長として迎え、霞ヶ関ビルを1968年に竣工。この武藤の息子の下で働いた記憶があるが、なんともスノッビーな男で呆れたものだ。今で云えばセレブ大好き人間とでも云うのだろうか。連れあいの友達にもそんなのがいて、未だに連れあいはその家の行事に呼ばれていくが、私は決して行かない。口もききたくない。1978年鹿島の第7代社長。1982年日本土木工業協会会長。1987年五島昇の後任として日商第15代会頭。談合ボスとして紙面を騒がせた清山信二鹿島元副社長との関係について語られる場面は少なくない。相変わらずの談合体質は本当に払拭できるのか。
尾張幸也:1988年専務理事就任。こちら小田桐昭が書いている。尾張もやはり電通。「日本のCMの育ての親」とまで書いている。1971年2月23日に国会の逓信委員会放送に関する小委員会にて株式会社電通第二クリエーティブ室長として参考人を務めている。その時の話によると1952年、すなわち商業ラジオ放送が始まった翌年に電通に入社。翌年のテレビ放送開始とともにテレビのコマーシャル制作に従事したと説明している。この時質問に立ったのは内閣総理大臣就任前のあの森喜朗である。森はこの時同じく参考人として出席した日本広告主協会電波委員長である和田可一に喧嘩を売っていて面白いから一度読んでみることをお奨めする。
梅田八主守:1992年専務理事就任。リタイアー後はつくばでつくばね焼きという陶芸に専念しておられるようである。
寺尾睦男:1994年理事長就任:19290130京都生。1951年ライオン油脂株式会社入社。元ライオン株式会社代表取締役副社長。
長谷川馨:1994年専務理事就任
川手正樹:2002年専務理事就任
中島邦信:2002年常務理事就任
《現体制》
嶺井政治名誉顧問(沖縄電力元会長)
佐治信忠理事長(サントリー社長)
寺尾睦男副理事長(ライオン元相談役)
理事:秋山耿太郎朝日新聞社社長以下68名、専務理事2名、監事2名

何をするのか

第3条:本会は、公共のための広告活動を通じて国民の公共意識の高揚を図り、もって社会の進歩と公共の福祉に寄与することを目的とする。
第4条  本会は、前条の目的を達成するため、次の事業を行う。
(1) 公共的事項に関する広告
(2) 公共広告に関する調査及び研究
(3) 公共広告に関する広報
(4) 公共活動を行う機関、団体等との連絡及び提携
(5) 前各号に掲げるもののほか、本会の目的を達成するために必要な事業