ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ラジオ深夜便

酔眼朦朧として寝しなにラジオをつけるとなんだかもそもそとする人話し声。決して聞きやすい話し声ではないのだけれど、お話ししている言葉が胸を打つ。終わり間際だったのでゆっくり聴くことができなかったけれど、じっくりと聴けば良かったと後悔。NHKラジオ深夜便だった。7日深夜のお話は元特攻隊員の佐藤孝さんのお話だった。今週のラジオ深夜便午前1時の「“今戦争を考える”〜平和な明日を築くために」の出演者は下記。

  • 6日(月)「5千人を弔い続けた60年」 シベリア・朝鮮抑留者…川上喜政
  • 7日(火)「“死”の意味も考えぬ日々」 元特攻隊員…佐藤孝
  • 8日(水)「消えた徴用船、牛深漁船団」 郷土史研究家…山下義満
  • 9日(木)「光さす故郷(ふるさと)へ」 旧満州引揚者“語り部”…竹中よし
  • 10日(金)「見放された兵士たち・ビルマ戦線1000kmの行進」岡山県ビルマ会…難波一

 もうお盆が来る。敗戦記念日がやってくる。今日甲子園の高校野球が開幕した。高校生たちが整然と両方の手を不自然なまでに振り、膝をあげ、中のひとりが大声で号令をかけながら歩いてくる様を見ると実は私は暗い気持ちに陥ってしまう。彼らにとっては各県の予選をただ一校勝ち上がり、晴れの大舞台にみんな揃って入っていくという晴れの行進だから、大変に気持ちがよいのだと思う。だけれども、私は「統制が取れる」ことの怖さが頭をよぎる。誰も彼もがたったひとつしかない選択肢の中であたかも熱に浮かされたかのようにその方向に雪崩を打った日のことをどうしても思い浮かべてしまうのである。
 8月6日の広島の原爆慰霊祭が今年もあった。たったひとつの方向への雪崩の挙げ句の果てに、そして互いの復讐戦の挙げ句に、何万という人が熱戦と爆風と放射線に完膚無きまでに叩き伏せられてしまった。その慰霊の集まりが毎年ある。前日このセレモニーも予行練習がある。花輪を携えた人たちがディレクターの指示に従って横一列に並んで慰霊碑に向かって歩調を揃えて進み、一斉に礼をする。良いじゃないか、そんなことにまで統制なんて取れていなくたって。そんなことまで一斉に行えなくても良いのだよ。気持ちがそのまま表れればそれでよいのだよ。皆が同じ価値観に立たなくたって良いのだよ。それでも亡くなった人は弔おう。しかし、人ひとりひとりを差別する必然性はない。神様になる必要もない。普通の人でよい。雪崩の中で死を選択せざるをえない立場に追い込まれた人はなんら省みられることがなく、たくさんの人たちをそんな立場に追いやった人々が神様となってあがめられてしまうのはどう考えても間違っている。一歩下がって誰も彼もがそんな「たったひとつ」の方向への雪崩を推し進めたのだとしたら、それは誰も彼もに同じだけの責任がある。だけれども、そのおかげで充分美味しい目を見た人はその分お返しをしなくてはならないのだろう。その決着だけは必要だろうと思う。