ほぼ足りてまだ欲 その先

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大学の入学時期 - 大学のあり方

 昨日報道されていたのだけれど、大学の入学時期をもっとフレキシブルにしないと留学生の受け入れや帰国子女の受け入れに支障があり、国際的に見ても立ち遅れているという判断のようだ。「学校教育法の施行規則は、「大学の学年は4月に始まり、3月に終わる」と規定している。ただ、現在も帰国子女や留学生などに配慮し、学生を学年の途中から入学させたり、卒業させたりすることは可能。2005年度も全国で322学部が4月以外に学生を受け入れたが、入学者は1569人(放送大学を除く)にとどまっている(2007年9月18日 読売新聞)」という記事を見ると、私はむしろ全国で322もの学部が4月以外の入学を許可するシステムを持っていることに驚いた。だけれどもその数の少なさにも驚いた。これでは平均するとたったの5人だ。多分それは帰国子女を受け入れようとする大学なのだろう。私が一時期在籍していた三鷹にある大学では9月になると「セプテン」とみんなが呼ぶ、おおよそ米国あたりから帰ってきた学生が入学してくる。その上OYRと略称される外国からの一年間限定留学の学生がやってくるので途端にバスが賑やかになる。
 上述の記事では大学だけ9月入学にすると高校を卒業したあとの半年間の空白期間が問題になると指摘している。上記の三鷹の大学ではないが、4月と9月の二回の入学式、卒業式という使い分けをすればよいのではないのだろうか。単位認定がとても複雑になることは明らかだろう。しかし、それでなくても今の大学が進学率の上限に近づく状況の中でこの際、明確にリベラル・アーツとしての存在に割り切ってしまい、専門教育の役割を大学院に委ねたらどうだろうか。そうすればあとの問題は大学卒業後の就職となる。各企業の会計年度はほとんどの場合この国では4月-3月である。そうなると4月から何もかも予算化してはじめたい。だけれども下半期は10月からになるのだからそういう仕切りはできるだろう。
 そもそも今現在の大学教育の様子をうかがっていると、本気になって、あるべき姿のリベラル・アーツを実践している大学は本当に数えるほどしかない。多くの大学が「リベラル・アーツ」を目指すといい、パンフレットに書いてはいるけれど、本来的な意味でのそれにはなっていない。
 本来的には学部の4年間の間に(実は4年間は長すぎるのではないかと思うが)高等教育の範囲で本来的に身につけるべき「ものの見方」「考え方」「分析のしかた」といったツールを身につけて、それを使って自分が興味を見付けられる分野を見ていくということを実践していくべきだと思う。そしてその基礎的な力を使って大学院でひとつ極めていくというのがそうした学問のノウハウの集大成なのではないだろうか。
 実際の話、各企業で大学卒の新入社員に極めた専門性を期待しているのかといったら甚だ疑問だろう。今は全く違うという反論があるかも知れないが、私がサラリーマンをやっていた、まだすこししっとり感が残っていた時代ではむしろ変な色が付いていない方が良いくらいの考え方だったといって良い。これは大変に失礼な話で、日本の高等教育をまともに評価しないという姿勢だった。
 そうした風潮が大学の学部教育から高等教育の基礎を身につける時機を失ってしまった様に思える。確かにかつての大学では基礎的な学問に取り組むノウハウは自ら身につけた結果として進学することが普通のことであったかも知れないが、今の社会での基本的なノウハウを大学に進学してくる学生が身につけているとはとても思えない。図書館やその他の機関が主催してその一助となるような講座を開いたりするがそれはカリキュラムの中に取り入れられていなかったりするので、普通の学生は取り組まない。こうなったらカリキュラムの中にそれら基礎的コースを取り入れるしかない。いつまでも学生が取りやすい、あたかも街のカルチャーセンターの講座のような授業ばかりやっていても実際の「学生力」の向上には繋がらないのだ。そうした見た目の美味しさで学生が集まればそれで良くて、できるだけ面倒で地道な部分を省こうとする大学経営が最も日本の知性をないがしろにしているという現状を文科省はしっかりと見張り続けなくてはならない。
 そういう意味では自らの出身校をこうした観点から見つめ続けるオンブズマン的活動も考えなくてはならないかも知れない。