ほぼ足りてまだ欲 その先

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八ッ場ダム

「 八ッ場(やんば)ダムは1952年、カスリーン台風(1947年)による大被害をうけ、利根川上流にダムを築いて洪水調節を行い、下流部の洪水被害の軽減を図るための治水事業の一環として計画された」と八ツ場ダム工事事務所HPの解説にある。そこにはこの計画で地元住民は不安の中にあって反対したとも書かれている。そして「1976年、水源地の犠牲に対して、恩恵を受ける下流受益地も相応の負担をする「利根川・荒川・水源地域対策基金」が発足し、八ッ場ダムは1987年に基金対象ダムに指定され、ダム事業・水特法事業・基金事業の3事業によって、水没者の生活再建をはかる」ことになったとし、「 1985年、住民の要望がまとまり」前に動き出したという経過があるのだからこの計画によって恩恵を受ける下流域の、そして首都圏の住民はこの経過を充分に認識して欲しいとまで書いてある。
動き出してから計画は大きく二回変更された。

  • 2001年:八ッ場ダム建設に関する基本計画(一部変更)が告示され、平成22年度工期となる。
  • 2004年:八ッ場ダムに関する基本計画(第2回変更)が告示され、建設の目的に流水の正常な機能の維持が新たに追加となり、「水道」、「工業用水道」の利水参画量及び建設に要する概算事業費等は変更となる。

 私が年に数回吾妻川沿いを走っていた1995年までは目につく様な工事は行われていた記憶はない。しかし、少しずつ道路が良くなる傾向にはあった。そこからしばらく行くことのできない状況にいたものだからその間の動きには全く気がつかなかったのだけれど、1999年に入ってようやく状況が変わって六合村行きを再開して初めてあちらこちらでなにかが動き始めていたことを知った。2006年になって久しぶりにバスパックツアーで通りかかってみると、あっちに高架橋になるのであろう橋桁がにょきっと建っていたりしてなんだかとても大がかりに吾妻川渓谷が造作され始めたことが分かった。実はバカなことに、そんなこと、この時代のこんなところで起こるなんて全く現実的でなくて途中で挫折するんだろうと思っていた。「そんなぁ、ばかなぁ・・」と唇の片端に笑いを浮かべながらである。霞ヶ関は決してそんな判断なんてしないんだってことは有明湾の干拓ゲートで十分に知っていたはずなのに、である。
 吾妻川は実は強酸性の水が流れ込んでいる川である。それを人工的に途中で中和して下流に流している。つまり未来永劫この作業を続けなくてはならない運命をになっている。これがなにかの影響で不都合が生じた時に将来建設されるダム本体に影響を及ぼさないのかと云ったら多分そんなことはないだろう。それよりも何よりも、そうした水を水道に使って欲しいのかという点について私は疑問を持つ。そんなのph値として問題ないんだから大丈夫なんだよと云われたとしても、私は気持ちよくない。しかし、こうして考えてみると全国にはこの吾妻川と同じ状況にある川というのはないのだろうか。そこまで強酸性ではないということなのだろうか。
 そして問題なのはここにかかる建設費だろう。当初の予算2100億円から思いっきり4600億円へと二倍以上に増大している。しかもこの金額には周辺関連工事予算が全て入っているのかどうかという点も疑問だ。一説には8000億円という数字が流れている。これは確信がない。ここまで来てしまっていてもう後戻りはできないのだろうか。建設官僚は絶対にこのダムの建設を止めないだろう。どんな疑問が残ろうとここまで来たら止めないだろう。彼らにとっては彼らの人生が終わったあとのことなんてどうでも良いのだから、こうした計画が動き出したら後には引かない。工事を請け負う方は仕事が発注され、それを受注できさえすればその工事がどの様なことを引き起こすのか、どの様な影響を誰に与えるかなんてことはこっちの仕事じゃないから知らないよ、こっちは発注されたことを粛々と(この言葉を皆さんお好きで)進捗するだけだという。そして現在の担当部署は引き継がれたことを粛々と進めているだけだと云うだろう。そして肝心な部署はきっと表には出てこない。そうして彼らが国会の質疑への回答を書く。そして時間切れになってうやむやになる、というのがこれまでの流れだったろう。しかし、私たちはこんなやられっぱなしでは子孫からきっと「お人好し」だとしか云って貰えないだろうなぁ。