ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

敬老の日

 今日は休日でこれで三連休。界隈はとても静かだ。NHK総合テレビでは“双方向解説・そこが知りたい!「どう支える高齢化社会」"と題してNHKの解説委員がそれぞれの専門を生かして議論をしていた。双方向というくらいでオン・タイムで視聴者からの意見を紹介しながらの番組で「朝まで生テレビ」に比べて数段レベルの高い議論となっていたと思う。
 中には「官僚の手先のような議論は意味がない」という意見も寄せられていたけれど、私はそうは思わない。こうした政治を行ってきた政党を選び、あるいは選挙にも行かずに放置してきたのは国民そのものなんだという経済担当委員の指摘も正しいと思う。
 私たちの社会では霞ヶ関で働く人たちを学校教育の中で高得点を得られる人たちから選んできた。そしてそれは西洋化が始まった頃からそれを続けてきた。そして彼らの中には明確に生活の糧を得る手段としてこの職業を選んできた人たちが大半を占めている。それを是としてきた社会の価値観というものがこれを支え、肯定してきた。この根本的な価値観が変わらない限り、この社会の根本を構築する行政というシステムが長期にわたる、広い視野に基づく未来感を捉えることが出来ない。
 私の周囲には霞ヶ関高級官僚を父親に持つ人たちが何人か存在した。誰一人をとっても不自由な暮らしをしていた人はいなかった。役人は給料も低いし、だからこそ様々な手当が存在するんだと子どもの頃に聞いていた話とは随分違うものだなぁと思った。つまり、子どもの頃周囲にいた多くのサラリーマン家庭に混ざっていた役人家庭は多分地方公務員で、長ずるに及んで眼にした豊かな役人は高級官僚だったという違いだったのだろう。
 「霞ヶ関をぶっこわ」して貰っては困ると思うのだけれど、霞ヶ関の価値観、この国を動かしているのは俺たちなんだという奢りから始まるものを払拭することが必要だ。そのためには職員としての採用方法をもう一度考え直さなくてはならないだろう。