ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

寺巡りだけに西方へ

 昨日に続いて今日も西方面に向かうのだけれど、まず最初には朝飯を食わなくてはならない。昨日夕飯を食べた「小町食堂」で和食朝飯を食いたいと思った。良かったといえば良かったのだけれど、昨日の夕飯時と変わっていたのは鮭の塩焼きがあり、納豆なんてものがあったくらいで、こういう店は毎食入ったのではすぐに飽きてしまうのだということを知る。

まずは妙心寺

 バスに乗って「日本最大の禅寺、臨済宗の6割の末寺を抱える妙心寺派の1337年、95代の花園法皇さまの勅願によって創建された本山、正法山妙心寺」を目指す・・といってもバスに乗るだけである。今日はバスのみ利用して行動する予定だということで、二人とも京都市バスの一日券(500円)を購入に及ぶ。
 ここまで来るのには昨日乗った嵐電でも来られる。
 特別公開されているのでここに来たのだけれど、それは三門で、拝観料は600円だった。ここの三門は朱塗りで京都でこれまで見たどの三門よりも派手だ。つい特別公開だと聞いたものだから誰にいわれるまでもなく金を払ってするすると上がる。一番上の部屋にはそれはそれは綺麗に彩色された絵が描かれており、観音様と十六羅漢が並んでいる。それを写真にとってはいけません、はわかったとしても、三門から外の撮影も許可されないというのが良くわからない。OKにすると人が滞って邪魔だからなんじゃないのかという非常に好意的な捉え方もあるけれど、どうも理不尽だ。解説のガイドの方がおられて説明をしてくださるのだけれど、関係者らしき方が外で携帯電話で話をしていてその声が邪魔で仕方がない。
 十六羅漢はとても面白い表情をしていて(本当に写実的な表情なんだったら大変に申し訳ないけれど)まるで漫画のようで楽しいことこの上ない。
 解説の方のお話では妙心寺は寺としては初めてきちんとした収支帳面をつけたといわれていて、それを「妙心寺の算盤面」といわれていたというのだけれど、だから今回は三門の拝観料600円、衡梅院の拝観料も600円、そして法堂と明智浴場を解説してくれるguided tourが500円と「算盤面」の面目躍如というところか。
 衡梅院ではとても切々と解説してくださる女性が良くて興味深かったのだけれど、あとから入ってきた団体を引き連れておられるガイドの女性がそれはそれはとても大きな声で、私たちの集中心を乱す。お庭が素晴らしい。
 500円のツアーの方はなにしろ見ものが法堂の天井に描かれている狩野探幽雲龍図である。
 最初見物客を全員片方に寄せて説明をして、そこからぐるぐると天井を見ながら少しずつ歩いていくと龍の姿が変化してくるのである。おかしいのだ。こっちを向いていたはずなのに、はっと気がつくと違う格好をしているのだ。一体どうなっているのだろうかと「ふしぎ、ふしぎ」といいながら一周してしまうのだ。これは是非とも500円払ってご覧にならなくてはならない。おすすめなんていうものではなくて、ここに来たらこれを見るのはmustなんである。どうりで法堂の正面は金網になっていて天井が見えなくしてあるわけだ。
 明智の風呂の方はまぁ、そんなものかという程度なんだけれど、法堂の龍を見たあとなので、知らないうちに感心しているという状況である。
 妙心寺の中にはいくつもの「〜院」という名前のついたお寺さんが入っているけれど、そのうちの霊雲院の前まで来ると「西田幾多郎先生墓」と描かれた石碑が立っている。こりゃ拝んでいきたいものだと思ったけれど、境内には全く入れない。どうやら分骨されているらしい。
 妙心寺は元はといえば花園天皇から始まっているらしくて、花園大学というのはここから来ているようだ。
 さしもの広い妙心寺もとぼとぼと北門に抜ける。こっちに来るということは次に向かうのは仁和寺である。北門を出てから左に進路を取る。三叉路を自然に右に取る。すぐに和菓子屋が右手にある。連れ合いが「ココダ、ココダ」とそれじゃパプア・ニュー・ギニアである。なんの変哲もないお店なんだけれど、大丸にもお店を出しているという「三河屋」という。このわらび餅が旨い!ひと折り525円だけれど美味しくて食べ甲斐がある。
 そこから京福北野線をわたり、しばらくいったやはり右側に「おからはうす」という店があって、つれあいが誰かに聴いてきたんだそうだ。如何にもおばさんたちが好みそうなお店で、お客の中の男性は私と同じようにリタイアした爺と近所で仕事をしていると覚しき40代の男性の僅かに三人である。

仁和寺

 三門前まで来てみるとちょうどバスが着いて何人もの外国人さんの一行が降り立ったところだった。ここの金堂と経蔵が例の「京の冬の旅」非公開文化財特別公開なんである。
 真言宗御室派総本山大内山仁和寺だということで、妙心寺から来る間に御室小学校があったくらいで御室(おむろ)は地名にまでなっているけれどやっぱりここも光孝天皇宇多天皇が開基にかかわっていて金堂はやっぱり紫宸殿だった建物である。
 こちらの経蔵は八角輪蔵といわれているものだそうでこの中には天海が木版を作成して印刷した経が納められているんだそうだ。壁の内側にも絵が描かれているけれどその板一枚が壁だから徐々に風雨によって痛んできている様子が見られる。チャンスがあったら早めに見ておくべきだろう。
 こちらの五重塔は東寺のものと比べても小さいのだけれど、とてもシックな造りで、あちらに比べるとむしろ女性的な雰囲気を醸している。
 とにかく京都のお寺さんにお伺いすると、あっちもこっちも大本山で、あっちもこっちも「なんたら天皇」が関係していて、あっちもこっちも当時の紫宸殿を移設してしまっていて、当然の結果その部分は造りが同じであって、礼の間があって旦那檀家の間があって・・という具合だったりするわけだ。
 それにしてもこのあたりまで来ると、あぁやっぱりお寺さんというものは一日に二つも三つも欲張って見てはいけないんだなぁ、だから中学や高校の時の修学旅行の記憶にはどこに行ったか全くはっきり残っていないんだな、ということがわかろうというものである。
 つまり私はこの日のこの辺まで来るとこれはどこのお寺でお伺いしたのか段々怪しくなってきているのである。

北山鹿苑寺

 さて、集中お寺訪問はこの辺に来てそろそろへばりつつあるのだけれど、これからである。私たちは「きぬかけの道」という名前がついているバスが走る道をとことこと北上し、竜安寺を目指す。ところが境内にたどり着いてみると「現在工事中であり、石庭見学に工事騒音や養生が邪魔になる可能性あり」といった類の看板が出ていて、なんだ、それなら何も今見なくてもまたその工事が終わってからでいいやという気分になる。境内でトイレを借り、ベンチに座って三河屋で買ったわらび餅を取り出しておやつにする。通りかかった若者カップルが「あ、わらび餅ですねぇ」というのでお裾分けする。
 じゃ、しょうがないからとバス停に行くと随分たくさんの人が群がっているがぎりぎり乗り込んでいわゆる金閣寺、北山鹿苑寺へ向かう。こちらでは拝観料とは書いてなくて、お札料である。なるほどお金を払うとお札を下さる。こちらのお寺のお札を要らない人がいるらしくて「不要のお札はこちらへ入れてください」と書いた箱があるのが珍しい。お庭に回り込んでみるとたくさんの人だ。そしてそのまま方丈にあがれるのかと思ったらことはそう簡単ではなくて、別口だそうで、入り口に戻り、1000円也を払って、解体修理が完了して公開された方丈をこちらもまたガイド付きで見物する。そこかしこに石踊達哉画伯、森田りえ子画伯の杉戸絵が新たに描かれていて面白い対比になっている。北側にある足利義満手植えと伝えられる陸舟(りくしゅう)の松はなかなか立派なもので、これはこれだけで見ていてもなかなか飽きなさそうである。
 西大路通りまで出てきてどうやら連れ合いはバスで南下して北野天満宮を見るつもりだったらしい。ところがわれわれが乗った循環バスは反対に北大路バスターミナルの方へ走っていた。こうなりゃ仕方がない。そのまま乗って四条河原町まで出る。結果的にいってこっちに間違えて大正解だった。実は東大路通りの豆水楼祇園店のカウンターに席を取っていたのである。あのまま天満宮に参っていたら確実に時間に間に合っていない。

豆水楼

 私は全く知りはしないのだけれど、このお店は名の知れたお店なんだそうで、本店は木屋町にあるんだそうだ。湯豆腐は二種類の豆腐が電熱式の桶で暖めて供される。京で食べた豆腐はみんなつるんつるんとしていてなかなか美味しいけれど、豆腐はやっぱり豆腐だ。温かいご飯の上に豆腐を載っけておかかとネギを載せて醤油を掛けてぐちゃぐちゃにして食べるのが一番旨いような気がする。しかし、まさかここでそんなことをするわけにはいかないだろう。
 出てくる料理のひとつひとつを聴きたくなってしまうのだけれど、それじゃあんまりうるさすぎるからしょうがない、そのままただ「旨いなぁ」と思って食べてしまう。ホタルイカの酢味噌くらいはわかる。最後に鯛飯が出るが、これがまた薄いのにしっかり鯛の味がついていて美味しい。こんなことはもうあと数えるほどのことだろうと食べてしまう。

花灯路

 東大路通りを少し下って八坂の塔法観寺)のライトアップを見に行く。そこからまた東山花灯路のイベントで照らし出されている石塀小路やその近辺をめぐる。折角だからね。たくさん人が出ていて誰もいない通りを写真に撮るなんてことは不可能。
 それにやっぱりこうした景色を写真にしようとするのであれば三脚は持ってこないとなぁ。それにしても殆どのお寺さんでは三脚を持ち込んではだめというのは他の人に邪魔になるからだとわかるけれど、一脚も持ち込んではだめだと書いてあるのは理由がわからない。
 ご本尊を写真に撮るなというのは、礼を逸しているという考えだろうからわかるのだけれども、ほぼ全ての建物で中を撮ってはならないというのはフラッシュを焚いて他の人の迷惑になるばかりか、痛むからだというのは説得力がある。じゃ、フラッシュを焚かない撮影は許しても良いじゃないかという論理があるけれど、実は今のコンパクト・デジタル・カメラ等ではちょっと画面が暗くなると自動的にフラッシュを作動させる機構になっているものがあり、それを持ち主がコントロールできない、というのが実情だから全面的に規制せざるを得ないというのはわかる。しかし、寺社では殆ど昔から撮影禁止である。こうした状況に慣らされているものだから、大英博物館のようになんでもあり、という状況に解放されてしまうとどうして良いのかわからなくなってしまうのだ。
 八坂神社まで出てきて最後は市バス一日券を活用するために四条の通りを西洞院までバスで帰る。
 いやぁ、長い一日だった。