ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

屈折という項目

 昨日ちょっと書きかけたものが時間があんまりなくて舌足らずになってしまうので一旦削除した。削除してみたら、最初になんと書いたのか全く忘れた。
 要はこういうことだ。
 親にとって子どもはいくつになっても可愛い。というより心配だ。何か困っているんじゃないだろうか。ひとりで悩みを抱え込んではいないだろうか。うまくいっているのであればいいけれど、何か偏った考えにとりつかれて誰かに迷惑をかけてはいないだろうか。うまく自分を主張して暮らすことができているんだろうか。まぁ、そんなことよりも平凡で良い空元気に暮らして欲しいと考える。
 だからその過程で何かをやり遂げて次のステップに進めることになったとしたら親としてはとても嬉しい。しかし、それが親の満足感を満たすためになっちまったらそれは子どもを手だてにわがものにするということではないか、ということなんだ。
 知り合いのお一人がご自分の息子さんが著名な高偏差値の大学を卒業して、より著名でより高偏差値な大学院(院の場合は論文に意味があるんだけれど)に進学することを誇らしげに(ご自分は決してそんな気はなくて、ただ単に日記としてお書きになっているに違いない)ブログに写真入りで書き込んでいるのを見て、むっとした、というのが真相だ。なんで私は自分がこんな感情を抱いたのだろうかと自分が恥ずかしいところもあって、「屈折」という言葉を使った。自分のところには起きてやしない状況だからそういう感情を抱いたということなんだろうけれど。
 何年か前にはやはり知人のお一人がmixiのメッセージを使って、ご自分の娘さんが某超高偏差値大学に合格し、その様子が週刊誌の表紙を飾ったとお知らせ戴いたことがある。誠に素直なお知らせというか、わが家のグッド・ニュースは他家のグッド・ニュースだと思い込んでおいでなのに大変に驚いたのだけれど、逆に言えば私がそのような反応をするべきなのかもしれないが、はなはだ残念なことに私はそこまで人間ができあがってはいない。
 「大変におめでとうございます。すばらしいです!」なんて慇懃無礼なうわべだけの返事をメールしたような気がする。
 私はかくも狭量な爺なのである。どこまでも俗、そのものの人間性を抱えているのである。