昔からそうなんだけれど、なにかを改革するとか、なにかを変化させようとすると必ず、それでは既得権益を持っている人をどうするかという話になる。じゃ、その既得権益をどう評価してどの様に補償するのか、いや補償することによって代替えさせてそれで良いのか、それは間違いなのか、誰が一体どの様に裁定するのか、そこに疑問が出て来て揉める。
ダム建設にしても、発電所の建設にしても、それができることによってそれまでの生活という既得権益を放棄せざるを得ない人たちが出てくる。だけれど、それを最後はおかみが切り札を突きつけて公権力の力でそれをねじ伏せてきた。そしてその裏には、必ず上手いことやって濡れ手に粟を手にした連中の話を聞いてきた。
しかし、それはしょうがないんだと思って見てきた。砂川の時も、さんざんみんなが大騒ぎしたけれど、公権力にねじ伏せられてきた。何回もそんな様子を見せられてくると、どうせ最後は機動隊を導入してきて、裁判所からの執行許可を取ってねじ伏せられちゃうんだとそんな具合に訓練されてきた。
「公のためには私は捨てて公に奉仕するべきだ」という価値観を植え付けられてきた。だから、断固反対していると「ごね得」といわれる。
それは果たして本当か。
そういう観点からいったら今回の普天間の件で徳之島の住民による移設反対運動はそんな面倒はこれまで通りに沖縄県が背負い込んでいったらいいわけで、俺たちはいやだ、といっていることになってそりゃずるいじゃないか、という論調でマスコミが報じているのかといったらそんなニュアンスはどこにもない。むしろ「徳之島が反対するのは当然で、諸悪の根源は鳩山だ」というニュアンスだ。じゃ、沖縄の県民が背負い込めばいい、というのかといえば「こんなに反対をしている、悪いのは鳩山だ」であって、じゃ、誰が背負い込めばいいのかとは誰もいっていない。鳩山由紀夫が悪い、ということになるのはそれはそれで良いとしても、じゃ、どうなれば良いんだろう。
原発やゴミ焼却工場の話じゃないけれど、それじゃ、千代田区に持ってきたらどうなるんだろう。