ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

棚上げ

 その種の本を読むと明快に尖閣諸島は日本の領土として機能してきたし、それを中国という国もそのままにしてきた。だから、揉める理由もないはずだった。
 と、私は理解してきたし、日本の国民のほとんどがそう思っている。
 周恩来田中角栄と握手をした時に、それまでの歴史は日本の当時の指導者たちがそうしたのであって人民は彼らに騙されていたのだという理解で後ろに放り投げた。そして領土問題はそのまま棚上げになってきた。ずっと棚上げにしてきた。それで当面は問題がなかった。なぜかというと、その方が両者にとって実に都合が良かったからに他ならない。日本にとっては安い製品の生産拠点ができたのだし、中国にとっては生産技術を格安、もしくは無料で手に入れることができる大チャンスだったからだ。自力更生といって技術を教えろ、そのあとは全部自分でやるというスローガンでここまで来たはずだ。
 製品の輸出に伴って、ソフトの輸出と思っていた日本に対して中国はソフトに対して対価を支払うという概念を認めることに前向きではなくて、とにかく進んで先に行っているものはあとから来るものに教示するのは当然だという解釈だった。ブーメランという言葉が随分とささやかれていた。今やブーメランどころじゃない。
 しかし、それは日本にも大きな責任がある。明確にいうと「日本の企業」にも責任があるというべきだろう。自社が他社に先んじて中国という巨大な市場に参入し、格安な労働力を利用するためにはなんでもするという状態だった。ウロウロしていると他社が先に入っていって美味しいところを持っていくだろうと焦ったといって良い。
 実はこれと同じことがアジアの他の国で繰り返されてきた。
 中国がこんなに早く煮詰まるとは思わなかった。北京や上海を初めとした各都市の変貌を見ればそれが如何に急激な変化だったかということがわかる。その急激な変化に追いついていかないのは、中国国内の国民もそうだけれど、日本の国民だってそんな変化に自分の概念が追いついていかない。
 中国では所得格差が驚くほどに急激に広がった。何しろ共産主義計画経済下にあった中国があっという間に資本主義下の自由主義経済に転向してしまい、ただ単に政治的に社会主義を標榜しているに過ぎなくなってしまっていた。中国共産党という既得権益集団が独裁王国を築いているようなもので、この国はもはや権力を掌握している側とその他多くの被抑圧集団との植民地的構造になっているのだ。
 満州への侵略以降、私たちの国は中国に対して正面切った和解という行為に取り組んでこなかった。棚上げに次ぐ棚上げでここまでやってきた。触れないようにしてきた。触れるとそれは「自虐的に歴史を理解する」ということだといわれてきた。つまり、くさいものには蓋をして「歴史ある日本という国の誇り」を語ってきた。
 歴史を正面から取り組んで子孫に伝えるということに対して目を背けてきた。その間に中国は私たちが蓋をしている間に蓋の中で「憎悪」を煮込み続け、多くの若者の目を既得権益集団から背けてきた。
 今、ここまで裕福になった経済社会を築き上げたのは一体誰か、それは中国共産党ではなかったのか、という自己評価と日本に対する「憎悪」の形成によって現体制の矛盾を消し去ることができたとしても、しかし、それはいつまでも続くものかといえば、それは難しい。いつか必ず破綻する時が来る。その「いつか」をできるだけ先延ばしにする、つまり今の体制の矛盾を棚上げする期間をできるだけ伸ばすことが中国共産党にとっては必須なことである。
 中国共産党既得権益の確保に日本もこれまで一役買ってきたのだということでもある。
 これと同じことが今度はビルマでも行われている。ビルマの場合はその既得権益集団が軍事政権である。かれらの権力を揺るぎないものにするために、アウンサンスーチーは解放された。彼女を解放することによって自由主義経済勢力は大手を振ってビルマに進出することができるようになったのであり、ビルマ軍事政権にとっては「権益・権力」は渡さないけれど、一見自由化されたように見えるという一挙両得の手段を弄して、外からやってくる自由主義経済勢力とともに美味しい目を見るということだ。
 山崎屋と悪代官、そのものである。それなくしては経済活動が滞るのだとしたら自由主義経済というのは足を喰う蛸のようなものである。
 中国という蛸は食い続けた足の消耗が始まってきている。日本という蛸は足が相当に消耗してしまっている。
 次に、この地球では喰うことのできる足がなくなってしまった蛸に変わって、どんな経済システムを考え出すことができるのだろうか。

 話が全然変わって来ちゃったか。