今日はチョイと足を伸ばして広尾の東京都立中央図書館に雑誌の記事を検索しに行く。
日比谷線に乗ったのだけれど、日比谷線というのは前後の車両が3ドアのものと、5ドアのものがあってどっちが来るかわからない。だから普通は3ドア標識のところに並ぶのだけれど、5ドアが来ると気の効いたもの勝ちだ、なんとかならないのかと思ったのは都会人のくだらないところで、どうせラッシュアワーに乗る訳じゃないんだから、多少ずれようと良いじゃないかと、今は思うようになった。
なんでここまで足を伸ばしたのかといったら、先日再放送で見た東京ローズに関するテレビ朝日の番組の中で上坂冬子が国家反逆罪に問われたもうひとりの日系人川北友弥に関して「婦人公論」にインタビュー記事を書いているとされていたのを見たからで、その記事を探しにいったのだ。
私の記憶ではそれは1976年の婦人公論だったというもので、ならばと2冊が合冊になっている当時の婦人公論を6冊、つまり一年分借り出してみた。目次をためつすがめつしたけれど、上坂の他の記事はあるけれど、それらしいものがない。ハタと困った。ずらりと並んだ検察端末をみると、雑誌記事検索というものがある。お〜、これだ、これだと、上坂冬子で検索をかけるとあった、あった。
そもそも雑誌からして違っている。婦人公論ではなくて、中央公論で、しかも1977年の9月号である。私の記憶であっていたのは「公論」だけだ。
タイトルは「国家反逆罪もうひとりの犠牲者」となっていて、川北友弥は実名として登場せず、加藤忠夫(56)と表記されている。イニシャルにすると同じT.K.にはなる。翌年1978年10月に川北は上坂冬子に伴われて外務省に園田外務大臣を訪ね、名誉回復に協力を要請している。下嶋哲朗が川北についての「アメリカ国家反逆罪」を書いたのが1993年11月である。翌年下嶋はこの本で講談社ノンフィクション賞を受賞しているとウィッキペディアには出ている。彼は沖縄にからんだ仕事に多くの実績を残しておられる様だけれど、お声も顔も見たことがない。
さて、その中央公論である。
1977年といったら30数年前のことになる。この頃の雑誌の活字は小さくてもう今の私には読みにくい。インタビューだと認識していたのだけれど、中身は一対一の聞き取りではない。インタビューしたという事実を基にした上坂の記述である。
この記事の中に川北の名誉回復運動の一環として社会党の西村関一が1961年2月27日の衆議院予算委員会第二分科会で質問に立って、彼のことについて触れ、「(外務)大臣におかれましては総理と御相談いただきまして、彼が釈放されるような道が開かれるように、アメリカの最高首脳部、特にケネディ大統領とお話し合いをしていただく、そういう御努力を願えないものであろうか。」とお願いをしている。小坂善太郎外務大臣はプライベートなことで他国のことだから慎重にすべきだけれど、(池田)総理には話しておくと回答している。
この時に既に川北の実名は国会でまで明らかにされている。にもかかわらずこの記事で、上坂が彼の名前を加藤と敢えて仮名にして記述している理由は一体なんだろう。
川北は1948年9月3日にLos Angeles地区連邦地方裁判所で反逆罪によって死刑と判決された。「東京ローズ」たる(実はそんな人は存在しないが)戸栗郁子がサンフランシスコ連邦地方裁判所で1949年9月29日に懲役十年罰金1万ドルの判決を受けたのはそのおおよそ一年後である。上坂の記述によると1952年6月2日に大審院の判決で川北の死刑が確定したとある。
しかし、日本での減刑嘆願運動などが興り、翌1953年10月29日にアイゼンハワー大統領は死刑から「終身刑及び罰金1万ドル」への減刑令状に調印したとある。そして11月3日にはLos Angeles County JailからSan Franciscoのあのアルカトラズの刑務所に移ったという。1963年にアルカトラズ刑務所が閉鎖されて、今度はワシントン州Tacoma近くのマクニール・アイランド刑務所に移っている。アルカトラズにいる間にすでに両親を亡くしている。
そして1963年11月29日に特赦となる。その内容は「刑期は縮小してこれまでつとめた16年とし(つまり満期となる)1万ドルの罰金を免除する」というものである。ただし、国外追放になる。しかし、ここで上坂が書いている。1963年11月29日に時の大統領は誰だったか。J.F.K.が暗殺されたのは11月22日である。あとでわかったのは、実際に大統領がサインしたのは10月24日だったというのだ。
川北の特赦は米国に今後入国しないことが条件で、もしその時には残りの刑期をつとめる、つまり終身刑囚として収監されるということだったそうだ。しかし、日本においても問題があった。それは彼が外国において一年以上の懲役刑に服した者の入国は許可しないという出入国管理令に触れるのだ。無国籍者として入国して、特別許可を得て滞在が許されるという特別措置が執られたのだという。
彼は日本へ入国してから一年後に結婚しているが、夫人には詳細をつまびらかにしていなかったらしく、夫人は上坂にそっとしておいて欲しいと話したようだ。だから、上坂は敢えてここで仮名にしたのではないだろうか。
上坂はしきりに戸栗郁子に較べて川北は人びとの支援を受けられず、しかも戸栗よりも辛い戦後を過ごしてきたにもかかわらず何時までも名誉が回復されないのは理不尽だと憤る。というのも戸栗は米国籍のまま戦争中に日本に滞在し、ゼロアワーに協力した。しかし、川北は三木武夫の支援を受けて明治大学を卒業して、二重国籍を日本国籍に変え、日本人として日本で捕虜の管理にあたっていたのであって、当時の彼は、戸栗に較べたら米国に対しての反逆罪なぞ全く犯してはいないのだ、という主張である。確かにその通りだけれど、だからといって戸栗、そしてそれを上坂よりも先に取り上げたドウス昌代に罪はない。
戦争が終結してから、川北が在東京米国領事館にいって米国籍は一度破棄したのだけれど、復活はできないのかと訊ねたら、できるんじゃないかといってトントン拍子にものが運んで米国に帰ることができたまでは良かったけれど、当時の捕虜とばったり偶然に出会ってしまったのがたったひとつの運の分かれ目だった。
さて、この雑誌が発行されてから、川北の生活はどの様になったのだろうか。健在であれば彼は今年89歳ということになるのだが。
1978年1月号の中央公論に載った上坂冬子の「対米謀略放送の裏をかいた男」がとても面白い。次回ご紹介。