ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

寒い朝は

 昨日はまたまたサッカー、韓国対豪州を見てしまってようやく寝にかかったのが午前3時(これじゃ、昨日っていわないね)だったのだけれど、ラジオ深夜便をつけたら、「ジャッキー吉川ブルーコメッツ」と「パープル・シャドウズ」だった。ブルコメはたくさん曲があるのは知っているし、自分でも何曲か歌っていたこともあるけれど、パープル・シャドウズといったら「小さなスナック」しか知らない。これは交互にかけるほどの曲があるんだろうかと思った。
 するとパープル・シャドウズのリードギターの今井久は元々ハワイアンが好きで大橋節夫の元に出入りしていたくらいで、最初につくったバンドは「ザ・バーズ」という名前でハワイアンのバンドだったというくらいで、当時のいわゆる「ムード歌謡」のような曲が何曲もあるのだった(それにしてもこのバンド名はすさまじいばかりのパクリである)。
 今井久は私よりも一学年上の早生まれだから全く同じ年代だ。われわれが高校生の時にはまだまだハワイアンは人気があって、数寄屋橋の今でいう「INZ」の二階には「不二家ミュージックサロン」という店があった。そこに大橋節夫や山口銀次、山口軍一、バッキー白片なんてところが出演していたけれど、ここではハワイアンだけじゃなくてジャズも演奏されていたらしい。
 ハワイアンといったら当時の私は「小さな橋」ぐらいしか知らない。あとは香港映画の俳優みたいな名前のハワイの歌手・ドン・ホーの「Tiny Bubbles」や「アロハ・オエ」だ。それなのに、大橋節夫はオリジナルしか演奏しないといっていた。当時の風潮はおかしなところがあって、アメリカでヒットした曲を、今でいう「カバー」したものを演奏するのが主流だったし、誰かプロの作曲者や作詞家が作って与えられた、いわゆる「オリジナル」を演奏するのは、する側も聴く側も、何となく「なんだよ、そんなコマーシャリズムにヘロヘロしやがって」という雰囲気があった。「ゴールデン・カップス」なんかはブルースを演奏しているときはやっている方も聴いている方もいわゆる「しびれて」いたわけだけれど、ひとたび彼等がノルマのように「それではオリジナルで・・」というと、観客の若者達も「あぁあ!」という失望の雰囲気を一斉に醸し出したものだった。
 それなのに、大橋節夫とハニー・アイランダースはオリジナルしか演奏しないのである。「倖せはここに」なんてのがヒットした・・のかどうか知らないけれど、少なくとも私は知っていた。

 今これを見ると、楽器構成は確かにそうだけれど、これはどう考えてもハワイアンとは思えなくてロマン歌謡とかムード歌謡というようなもので、この路線がマヒナスターズに行き、似たような構成のラテン系バンド出身なんかが渾然一体となってスナック愛唱ミュージック的な世界が日夜(というのは嘘で夜な夜な)日本中で今でも繰り返されているんだといっても良いかもしれない。
 その証拠が「わかれても好きな人」という唄で、この曲はロス・インディオスと先日亡くなったシルビアで夜のスナックで歌われない夜はないだろうというくらいの大ヒットだけれど、作詞作曲は佐々木勉(ザ・サベージの曲を作ったのは同じ名前だけれど「ささきつとむ」でこちらは「ささきべん」。だけれども、実は同一人物という面倒くさい使い分け。1985年に40代で死んでいる。)ながら最初に歌ったのはパープル・シャドウズなんだというのである。
 そういう意味では日本の唄文化に最大の貢献をしてきたのはジャズでも、ロックでも、カントリーでも、ビートルズでもなくて、日本のハワイアン業界(そんな業界があるんだとしたら)だったのかもしれない。じゃ、今の若者達に大きな支持を受けていて、日夜若者がカラオケで歌い、武道館や東京ドームを満員にし、グッズを買っている音楽業界はどうなんだろうかといったら、それが多分ビートルズ出現あたりからの枝分かれなのかも知れない。これはきっとどこかで、分析している人がいるんだろう。
 当時の私はThe Beatlesの出現に驚き転げ、それまでの真面目一本槍だった高校生が突然そうしたことに目覚めてしまって、ビートルズの手近なオルタナティブとして、出てきたばかりの「The Spiders」というちょっと若者指向なバンドに興味を覚えて銀座のACBに、出入りし始めた。ティーブ釜萢の息子やら堺駿二の息子が入っているというのはとっかかりやすい。それは一応親の年代にも認識されている名前でもあるからだ。(話は違うけれど、堺駿二ってのは今から思い出すと、顔だけだけれど、チャーリー・チャップリンに似ていないこともなかったなぁ)。学校帰りに学生服のまんま出掛けていっては、良くヤマハフェンダーを見物してからいったものだ。
 私はここから、西銀座の二階にもなんだか知らないけれど、生バンドが入っているところがあるらしいよ、と聞いて「不二家ミュージック・サロン」に出掛けていったわけで、時系列的に見ると、逆行しているわけだ。
 で、話は元に戻ってパープル・シャドウズなんだけれど、このバンドでサイドギターで鼻声で歌っていた綿引則史は多分今井久と同学年で、私の母校の出身だったはずだ。サークルの先輩とどこかでつながっていた。
 それではムード歌謡と「学生街の喫茶店」のガロのメロディーラインを彷彿とさせるようでいて、ちょっと恥ずかしくなるような、「ラブサイン」、そして「小さなスナック」をご堪能あれ。