ほぼ足りてまだ欲 その先

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池袋 巣鴨

 前回のブラタモリが池袋から始まって雑司ヶ谷から目白の駅を見に行き、巣鴨に出てから染井霊園を通って古河庭園へという長丁場だった。池袋を除いてその殆どはここ数年にようやく行ったことがあるという場所で、それまでは聞いたことがあったって、毎日毎晩家と職場と呑み屋の徘徊だけだったから、実に狭い範囲で生活をしていたのである。
 多分今でも多くの現役労働戦士の諸兄は大して変わらない生活をしておいでなのであろうけれども、私のような大馬鹿もの労働者と異なるのは、現在の賢明なる方々は「呑み屋の徘徊」という実に非生産的で、且つ無駄な時間と金の浪費をほぼされずに、多分その余力をそうした周囲への関心に費やしておられるかもしれないが、この馬鹿者は巣鴨の商店街が中山道の一部なんだということも、古河庭園が高台にあることも、つい先日知ったばかりのことだったのである。
 つまり隠遁生活に入るまではその辺りには全く用事がなくて、用事がないところには出掛ける理由がなくて、そんな時間があったら寝床で惰眠を貪っていたかったのである。学生時代は勉強をする環境だったのに、勉強をせず、出掛ける金があったときには出掛けることもせず、たった一度の人生というのは立ち返ることができないという、実に理不尽且つ不合理なものなのだ。
 これが「やや、これはしたり、私は37年前からやり直すことにする!」という宣言と同時に実行できたら実に面白いと思う。面白いだろうけれど、これは困ったことも起きる。些細な感情のもつれから発生する犬も喰わぬものなぞに際しては、その度に「えぇ〜い、あの時に戻ってやる!」と宣言をしてしまって戻ったのは良いけれど、その度にまた面倒な手順をふむことになり、とうとう、一体全体これまでに何をしたんだったか、誰とどの様な会話や生活をしたのか、思い出すのが複雑怪奇と相成り、しまいには混濁した思い出の中で「えぇ〜い、もういいや!」となること自明である。
 実は古河庭園に出掛けたのは多分たかだか一年ほど前のことではないかと思う。駒込在住の方がお書きになった洋食屋の牡蛎フライを食べに行って、そうだ、古河庭園だと出掛けた。だから、当然の如く薔薇は全く咲いておらないし、寒々しいし、あの洋館もタモリが入ったような親しみなんて全くなくて、実によそよそしい佇まいで私を拒絶しておった。お庭を見ながら下がっていくと、実に素っ気なく日本庭園になってしまって、これだけ洋館を堂々と売り物にしているんなら、結果的にこうなってしまうんじゃなくてあくまでも西洋にかぶれてしまえばいいのに、それができないところが実に未練がましいと、タモリ倶楽部の切り口とはまったくの話正反対であった。
 あ、そうだ、あの番組を見ていて「あ、あのことを書こう!」と思ったことがあるのに、また忘れてしまったのだ。