前にも書いたかも知れないのだけれど、私は若い時からじいさん風に振る舞いたい症候群の中にいたような気がする。そりゃなんだよという話になるけれど、年寄り臭い格好、振る舞いに憧れるって奴なんだな。
万年筆に興味がある、杖を持ちたくなる、ハットを被る、東洋文庫を読むなんてことだったりするんだけれど、それは英国の格好をしたがる、一種のコスプレといっても良いほどの某著作者とは一線を画しているつもりだけれど、何も知らない人から見たら大して変わりないのかも知れない。
ハットの重要性は近年私にとってその重要性は増しに増していて、今や髪の毛の代わりも兼ねるようになったことについては日頃の努力が実を結んだかと酷く嬉しい限りである。ところが不思議なことにかつてあれだけハットが蔓延していた日本では(実は日本に限らないのだけれど)今やハットを被るのは爺さんだけだ。だから、私のような顔の大きな男はつばの広い帽子を被らないと収まりがつかないというような知識も全く市中に存在せず、そんなハットを被っているとすぐにいわれるのは「カウボーイみたいな帽子」という表現でしかない。それだけハットを被る人が激減していたことの表れであり、 逆にハリウッドの西部劇映画はこれほどまでに普及していたことを意味する。
若い人たちが近年パーティーグッズのようなハットを被ることが多くなってきたのはご同慶の至りであるけれど、多分彼等にとってはあの帽子は必要なものではなくて、多分飾りなのだろう。
帽子が廃ったのはジェームス・ディーン、エルビス・プレスリーがいけなかったのだよ。彼等がリーゼントの髪の毛にして売り出したものだから、若者が被りたがらなくなった。リーゼントで帽子を被ったら帽子の中はべとべとになる。しかし、うちの親父の世代はポマードだったにもかかわらず帽子を着ていた。べとべとにならなかったわけはない。どうしていたのだろう。
そんなことを面白く語っていたら、今や本当に爺さん状態に身体そのものが突入していて、膝が痛かったり、歩き続けるとすぐに疲れ果てたり、コレステロールの悪玉が増えていたり、トイレが近くなっていたりして、冗談や洒落ではなくなってきてしまった。これからは「ごっこ」ではなくて、爺さんそのもの症候群を楽しむことにする。