ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

国益の観点

 水戸黄門の印籠ではないけれど、これをかざしてしまうともうそれ以降誰も異論を唱えることができかねるという言葉のひとつだといっても良いだろう。「国益を考えてのことで」といわれた時にそんなものを考える必然などこの私にはないと言い切ってしまうと直ぐさま、「非国民」だとか「この国から出て行け」だというような言葉がいわゆる「愛国者」と自ら宣言するような類の人たちから却ってきそうである。
 じゃ、「愛国」ってなんだよってことになるんだなぁ。この国を愛するとか、この国の利益を考えるということは、他の国なんかはもうこの際どうなっても良い、ということになるわけで、他の国の利益なんてものはずたずたで充分結構だということになる。
 大体、「利益」ってのはなんだろうか。自分が得をすることであり、その得そのもののことであったりするわけだろう。けれど、それはどれほどあったら充分なんだろうか。世界で一二を争うほど、国として金を持っていることが得をしているということなのか。国として持っていても、その国に所属しているこの私はどうなんだろうか。この「私」にとって得になることを追求するとそれは「国益」とはいわないわけで、個人の利益でしかない。その個人の利益を追求するということを実現する時にそれがいわゆる「国益」と異なっていたら、つまり個人の利益が国益と相反していたら、それが初めて非国民ということになるのだろうか。
 覚醒剤密売で財をなしたら、それは国益に反しているというのは概ね共通認識になっても良いだろう。では、被爆しちゃう人が何人かでたとしても、電力が安定的に供給することができればそれは国益に合致しているということなのだろうか。あの戦争で一直線に死を持って報いることがあの人のため、また自分の家族のためなのだという教育を施していたのは「私利」を否定して「国益」に貢献するためだったわけで、その象徴たる歌と旗に恭順を示すというのはやはりそれも「国益」なのだろうか。その結果他の「国」に暮らす人々から農地を収奪し、食料を「徴発」し、「膺懲(ようちょう)」を加えたのも「国益」だったのか。そして今になってそんなことは起きていやしなかったと否定してみせることが「国益」なのか。そうしてみると「国益」というものは相当に独りよがりなことであるらしい。だとしたら「国益」にかなわないことはこの地球上には随分たくさんありそうで、この際だからこの「国益」国家は再び鎖国するしかないだろう。オリンピックを開くだなんてことはとんでもないことで、「貿易国家」を標榜するのも憚らなくてはならない。なにしろそういうことには「他国」がなくては成り立たない。「他国」が全く同様に存在していなかったら発想すらできないことだからだ。
 春先の早朝に富士の白雪が朝日に輝く様をじっと見ていたら、「国益」にこだわって生きる前に人間としての根源を考え直して生きるべきだ、という気持ちになる・・・筈だけれど、彼らはきっと違うんだろうな。