ほぼ足りてまだ欲 その先

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おやじ

 昨夜だったか、水道橋博士がラジオでいってたんだけれど、もし、親父が生きていたらどんな会話になるかを想像していったら本が書けるんじゃないかってんです。本が書けるとは思わないけれど、あの親父が生きていたら、どんな会話になったかを想像するというのは、結構興味深いなぁと思ったわけよ。
 うちの親父はとっても不器用な人でねぇ。岡山のいなかの農家の三男坊だったかで、甘える相手は婆ちゃんしかいなかったみたいだ。親父の両親というのを私は知らないから、かなり早いうちに両親は他界したらしい。彼は当時としたら勉強ができたこどもだったので、岡山二中から六高へ行って東京帝大を卒業した。明治最後の年の生まれで昭和11年に大学を卒業したが、当時がまさに「大学は出たけれど」の時代だったそうだ。そう気がついたときに、私は「参ったなぁ」と思っていた。親がこんな学歴だと何かと云われるからね。しかし、今になって気がついてみると、旧制中学へ入った時点でもう既に人数は限られていて、旧制高校、帝大ってのは場所を選ばなけりゃ行けたんじゃないだろうか。
 それでも会社の一年先輩で岡山一中の出身の人がいて、二人で良く「お前は二中だろ!」とか「一中がなんぼのものか!」と酔っ払っては言い合っておった。
 彼の学生時代のノートがたった一冊だけ実家に残っていたのを見たことがあるけれど、それはそれは繊細な字が並んだノートで、彼がどれほど気の小さな、気の弱い男だったのかがわかるのだけれど、そんな様子を見せまいと暮らしてきたらしくて、表現はとっても稚拙、というか、ヘタックソというか、今の時代だったら明らかに「あいつは暗いねぇ」といわれるような奴だったのではないかという気がする。
 だから、私のように、どこにいてもべらべら喋り、どこかなんかしらのことで受けようとするような行動をとる人間は気に入らなかったのに相違ない。飯時に姉なんかと喋りながら食べていると「べらべら喋るな!」とか「女の腐ったみたいなおしゃべりだ!」というようなことをいったものだから、私はいたく傷ついた。
 それでも育った時代がそうだったからだろうけれど、強い男を演じ続けていたものだ。それでいながら、最後はどこやらの神社に寄付を続けて、神棚を誂えたりしていたのだから、その辺はそれらしいといって良いだろう。
「最近、どうよ?」と聞いたらきっと「どうもこうもねぇよ。お前はまともに暮らしてんのか?」と切り返してきそうだ。
 そうだ、そういえば親父が泣くところを見た記憶が無いなぁ。姉の結構披露宴ぐらいでは泣いただろうか。そんな気もしないなぁ。