ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ガキ連

 65年ほど昔に住んでいたのは前にも書いたけれど、親父が勤めていた会社の社宅だった。坂道に段々をきって造成された三段の土地だった。その一角には、全て平屋の木造で、20棟ほどが建っていた。内風呂があったのはうちが住んでいた家だけで、多分会社が設置したんだろうと思われる電話がついていた。だからだろうけれど、その電話をみんなが使っていて、あるいはかかってきたら呼びに行っていた。社宅の真ん中にテニスコートが一面とれる広場があって、その隅に風呂場が建っていた。各家が交代で風呂を焚き、各家が交代で入った。結構負担になっていたんじゃないだろうか。社宅とはいってももうほとんど共同生活体のようなものだった。だから、会社の仕事と生活が切り離されていなかった。
 向こうの丘に後からできた社宅は鉄筋コンクリート三階建てのアパートが三棟並んでいたんだけれど、それでも風呂がついていなかった。そこもやっぱり共同浴場のようになっていたが、そこではもう既に重油のボイラー炊きで、専門の人が運営していた。
f:id:nsw2072:20181204212903j:plain:w360:left 社宅に住んでいる人たちのほとんどが同じ工場に働く人たちだったから、子どもたちは当然一緒になって遊んでいた。歳上は5歳上くらいで、歳下は3歳くらい下までだった。それより上の年齢の人たちはもうそんなガキとは遊んでいないし、それより下はついてこられないから「みそっかす」としてその辺をウロウロしていた。それでも野球にしろ、缶蹴りにしろ、戦争ごっこにしろ、彼らをないがしろにしないで、アウトカウントの対象にはしないけれど、混ぜてやった。野球だったらゴロで投げてあげたし、缶も蹴らしてあげた。
 佐藤さんの重ちゃんとみっちゃんの兄弟。中村さんちの重ちゃん、高田兄弟、村田さんちの兄妹、栗原さんちの兄弟、北川姉弟、金子姉弟、西脇さんちの兄妹、草のさんちの姉弟、雨宮さんのぼくちゃん、他にも何人もいたのに思い出せない。
 テニスコート一面分のまわりにもブランコ、砂場、草地があったから、広場としてはかなり広い。そこで社宅総出の運動会をやったことがある。写真が残っているから覚えているんだろう。おかあさんたちが準備をしたんだろう。ガキ連中が嬉しそうにポーズをして映っている。真ん中の段と下の段の間に南に面してダラダラとした法面があって、そこには春になると一斉に土筆が生えてくる。それを丹念に採ってはうちに持って帰って、指先を真っ黒にして袴を外し、ほんのちょっと佃煮にして食べた。
 砂場では一時期、こりに凝ったコースを造成して、小さな積み木を車代わりにして遊ぶのが流行った。それに飽きると、下駄隠し(♪げぇたぁかくなし、かくれんぼぉ)、缶蹴りをやっては、鬼になった誰かが、歳上の子が巧いこと逃げおおせて、鬼が終わらなくて、とうとう泣き出して、終わることが良くあった。
 そのうち、日が傾く、上の段の北川さんのおばさんが「かぁおぉるぅぅ!お食事よぉ〜!」と叫んでかおるちゃんが帰るのを機にみんなで解散になる。「聞いた?お食事だってよぉ〜!」と囃しながら。雨宮くんは私よりひとつ歳上だったと思うのだけれど、お姉さんがふたりいて、「ぼく」と呼ばれていたので、私たちもふざけて「ボクチャン」と呼んでいた。本名を想い出さない。ひょっとしたらマコトくんだったかなぁ。
 栗原くんの下の子がある日、ふ化したばかりのセミを捕まえた。彼の小さな手の中で、ぐぃ〜ぎぃ〜と鳴いている。誰かが「セミは長いこと地面の中にいて、ようやく出てきたらあっという間に死んじゃうんだぜ、可哀想だから離せよ」なんて自分が捕まえたらそんなこと、結して云わないのに、そういった。すると、みんなが「そうだな、可哀想だよ」といったものだから、彼はとうとう、セミを放した。するとそのセミは嬉しかったのか、ホッとしたのか知らないが、なきながら飛んでいった。彼は「うわぁ〜〜!」と泣き出してうちへ駈けていった。しばらく経つと、細面でめがねをかけた彼らのおかあさんが血相を変えて広場へ「なんでうちの子を泣かすの!」といいに来た。僕たちは多分コウコウだと説明したんじゃないか、という気がする。あんまり覚えていないんだけれど、その場面だけは覚えている。それから栗原兄弟はあんまり広場に来なくなったから、こだわっていたのかも知れない。後から聞くとあの兄弟は相当難しい大学に進学したらしい。一方、最後まで広場で遊んでいた連中はみんな、その辺の私立の大学に行った。
 もうこの歳になって、いったい何人くらい生き残っているんだろう。